26-4 藤と桜
このままじゃダメだ――着地しながらも汗ばんだ掌を握りしめて、京姫は思う。その間も一瞬たりとて漆から目を逸らすことはない。漆のどんな一挙一動も見逃してはならない。この男が強敵であることは知っていた。前世から。だから、決して油断してかかっていたわけではないのに……あらゆる技が届かないのだ。どれほど高く舞い上がっても、どれほど強い想いを放っても。
天翔ける白虎の風が切りつけるように姫の頬に吹きつける――その剣の先でさえ漆はやすやすと交わしてしまう。姫が肩で息をするのを見下ろしつつ、漆は歪んだ花のような笑みを形作った。
「その程度か、姫よ」
睨み返す目だけで、姫は訴える。けれども漆はたじろがない。
「生まれ変わって得たものは何もないのか。進歩がないな、貴様は。一体何のために生まれ変わったのだ」
「貴様こそ病み上がりの身で何ができる?」
白虎が氷柱の頂きを踏んで言った。
「結局は神頼みじゃないか。さすがは月修院さま、信心深いことだ」
「口を慎め、獣よ。私はもはや二条楷ではない」
漆は冷ややかな笑みを
「正しくは二条楷だけではない。姫よ、私のこの体が藤尾のものであることはすでに知っていたな。では藤尾が――ほんの一時的なことではあるが――京姫であったことも知っておろう」
思いがけぬ言葉に、京姫は宿敵の言葉を疑うことも忘れて呆然とした。藤尾が京姫?ありえない。そんな、ありえない。だって、京姫は終身制なのだから……そうありえない。だから、これは真実ではない。でも、なんで漆はそんなことを……
「嘘よ」
と、静かに首を振る京姫に、漆は口の端の影をますます
「では見せてやろう。姫よ、これが藤尾が京姫であった証、そして私が体得したものだ」
鎖鎌の刃が宙に垂れた。呼吸さえできぬほどの静寂が辺り一帯を圧した。その刹那、姫の瞳には漆の唇しか映らなくなった。
『——藤の影』
世界が霧に包まれたように白くぼやけた。その障子紙のようにあいまいな白さを透かして折から斜陽が差し込み、ほの明るみのなかにどこからともなく藤の花房が垂れ下がってそこかしこに淡い影を落とした。霞の立ち込める春の夕べの景色である。姫の翡翠の瞳にも藤の影が揺れていた。
姫はうつろな心でさまよいはじめた。その頬があやうく花房に触れかけたその時、京姫はすさまじい力で薙ぎ倒された。姫はようやく目を覚ました。
胸の上にじとり湿った重みを感じて、定まらぬ視線を落とした姫は、投げ出された節ばった指と白髪頭とを見た。
「ひ、姫さま、ご無事でございますか……?」
「えっ、あ……」
一体なにがあったのだろう。わからない。私は幻覚を見ていたのだろうか。左大臣は一体どうして……ぜいぜいと荒い呼吸をしながら、左大臣は弱々しくも姫の身から起き上がる。白虎のマントがはためいてその背後にそびえているのは漆から二人を守らんとしてのことであるらしい。眉までが乱れた左大臣がよろめきながらもその隣に並ぶと、狩衣は一面真っ赤に濡れていた。
「左大臣!」
姫は身を起こした。今ならばわかる――左大臣が漆の攻撃から姫を庇ったのだ。引き倒された背中の痛みがそれを物語っている。
「左大臣下がって!」
姫は叫んだ。
「ダメ!その傷じゃ……!」
「忠実な下僕のおかげで命拾いしたな、姫よ」
漆の言葉も今の京姫の耳に入らない。とにかく左大臣を助けなくては。どうにかしなくては。このままでは左大臣が……!
(玄武がいれば傷を治してもらえるのに。でも、玄武は今…………)
「姫!!」
突如降ってきた声が姫の肩を力強く叩いた。ヒュッと風が鳴り渡る音が頭上を通り過ぎる音がした。
姫ははっとして振り返った。巨大な女神の赤い照りを受けて、苧環神社の石段に立っている仲間たち。力強い目で漆を睨む青龍と、その傍らで矢を番える玄武と、白い大蛇に身を支えられて佇んでいる朱雀と――
「みんな……!」
呼ぶ声が震えた。感激とそれを呼ぶには淡すぎる。感激ではあまりにこの場に不似合いすぎる。けれどもそれに似た、もっと力強い感情が京姫の胸に起こった。青龍が再び立ち上がっていること、玄武が今まさに姫の呼んだ声に応えるごとく来てくれたこと、そして朱雀が変身を遂げてここにいることの、果たしてどれがもっとも姫の胸に訴えかけたのであろうか。いや、きっと、全てであり全てでない。
生い出た蔓が玄武を素早く石段の下へと運んだ。玄武は瞬時に左大臣の元へと駆け寄って、傷ついた背に手をあてた。「かたじけない、玄武殿」と左大臣がささやく声が姫の耳にも聞こえてきた。
震える黒い矢羽が漆の肩に突き立っていた。逆行する滝のごとく、真下から突き出てきた氷柱が漆の履先を刺し、咄嗟にその先を交わそうとした胴を湧き上がる水柱が捉えた。瞬時に水柱は凍りついた。氷柱は燃える銃弾に貫かれた。
「姫!!!!」
呼びかける四人の乙女の声が重なった。京姫が今、かつてないほどの勇気を持ってここに立っているのは他でもない、みんながいるからだ。前世からの四人の仲間、かけがえない友人たちが、四神たちが、すぐそばに揃っていてくれるからだ。苧環神社――この呪わしき場所の冷えた大地さえもが、今はしっかりと姫を支えてくれているように思われてならない。そうだ、この地には司の魂が沁み込んでいるのだから。
透明な琥珀のなかに閉じ込められたように、漆の姿は氷柱の中に透けて見える。それは世にも美しく、禍々しい宝石であった。あるいはそれは氷山のようでもあった。乙女たちの前に立ちはだかる魔の山である。しかし、ともかく全ての
紫紺の眸から放たれる光は、氷のなかで屈折し、まともに姫を射なかった。もう姫が恐れるものは何もない。ここで全てを終わらせる。白虎の言った通り、前世からの全てを。そして、私たちは
『……
氷柱は桜の嵐に呑み込まれ、瞬く間に姫の目より掻き消えた。
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