26-3 「最初で最後の私の変身」


 ――青龍!青龍!


 懐かしい声に名前を呼ばれている。でも、誰だっけ?そもそもあたし、青龍なんて名前だったっけ……?


 ――青龍しっかりして!


 ああ、玄武か。あたしどこで何をしてるんだろう。なんであんなに玄武の声が遠く聞こえるの?



 玄武の声よりもっと近くに聞こえる……川の流れる音。せせらぎというにはもっとたくましくて間近で沈鬱だ。それにとても冷たい。凍えてしまうぐらい。


 ……ああ、桐蔭宮とういんのみやさま。あなたは無慈悲にもこの冷たい流れのなかに投げ込まれたのですね。灰になったあなたは流れ流れてやがて沈んでいく。ばらばらになって。たったひとりで。たったひとりのままで。


 どうすればあたしは貴方をお救いできましたか?正義が水のように流れる世の中になれば……


 ……でももう遅いのです。だってあたしは漆に敗けてしまったのだから。だから宮さま、せめてお側に参ります。あたしも静かにここに眠ります。それぐらいは許されますよね?許してくださいますよね…………



「翼ちゃん!!!!」



 鼓膜に叩きつけられる絶叫――翼ははっと目を覚ました。不気味なほど赤く滲みだした夕焼けの空を背後にして、いまにも泣き出しそうな玄武の顔が迫っていた。


「奈々さん……?」

「わかる?あたしのこと?」

「もちろん。なんでそんなこと……」


 そして唐突に思い出す。龍に化身し、九尾の狐と戦ったときの記憶が蘇る。今となってはまるで夢のなかのできごとのようで、自分の身に起こったこととも思えない。しかし、思い出した瞬間にずっしりと重たい疲労が体を襲い来た。胸のうちから冷えが伝わっていくようだった。翼の頬は蒼褪めていった。あたしは自分が誰なのか、忘れてしまうところだったんだ。


 大丈夫?と心配そうな玄武に翼は我が身を抱きしめながらもうなずいた。そして戦いの行く末を尋ねた。ふともう一人の気配を感じ取り、その目が傍らに寄せられたとき、翼は疲れも寒さも忘れ去った。


「玲子さん!」


 木守の胴に腰かける玲子は優しい目で、しかし浮かない顔でただひとつうなずいた。


「無事だったんですね?!よかった!」

「ありがとう。でも喜んでもいられないのよ。翼、貴女もきっと感じるはず。私たちが想定しうる範囲で最悪のこと、ずっと待ち構えていたことが、たった今起こってしまったのよ。翼、最終決戦にいかなければいけないわ。すでに姫たちが戦いを始めている――」


 翼はできるかぎり落ち着いて受け止めたつもりであった。それでも波のように襲いきたものは避けようもなかった。飛沫を浴びて、翼は身震いした。先刻の寒さはもはや関係なかった。


「……とうとう漆が蘇ったんですね」


 声が裏返る。どれだけ自分を叱りつけても恐怖には抗いようがなかった。あたしはずっとこの時のために備えてきたのに……


「あたしたちも戦わなきゃ。どこに向かえば……」


 ふと一同は空を仰いだ。何者かの異様な注視をうなじに感じたためかもしれなかった。仰いだ先に巨大な緋の女神の屍が、虚ろな双眸そうぼうを少女たちに向けてたたずんでいた。


 言葉失う翼と玄武に、眼鏡の奥で目を細めて玲子が言った。あれは旧き月の神の成れの果てであると。


「九尾の狐の力で、あの女神は永い眠りから目覚めさせられた。でもここには信仰はない。本来ならばただ透き通って風のように消えてしまうのだけれども……呪われているの、憐れな女神は。満月媛の肉体はまもなく崩れ落ちるわ」

「崩れ落ちるとどうなるんです?」


 玄武はどこか苦しそうな痛ましげな表情で満月媛を見つめて訊いた。


「この世界は女神の腐肉に埋もれてしまう。全てが呑み込まれ、腐り、朽ちていくわ。命も、物質も、幻想も、歴史も、未来も、精神も、言葉も、神も。この世界を成り立たせる全てが。ただそうなるためには……」


 鳴り渡る鈴の音に青龍の鈴を見下ろした翼は、ほどなくして鈴の音のかすかな重なりに気がついた。木守が鎌首をもたげる方向を玲子もじっと見据えている。その掌からもうひとつの鈴の音は流れ出しているように思われた。秀でた鼻先に、指と指の隙間からこぼれて、明け初めの火光かぎろいが照り映えていた。


「玲子さん、まさか……」

「そうなるためには、私たちが消えなければならない。私たちのなかに満月媛への信仰がほんのひとかけらでもある限り、女神の肉体が崩れ落ちることはない……これが最初で最後の私の変身よ」


 月の女神に指し示すがごとく、玲子の手が高く鈴を放り投げた。




 一個の火球と化した鈴から両翼の如く迸り出した紅炎が、玲子の指先から腕を伝い、胸乳から背を焦がして紅の背子はいしとなった。地に降り落ちた火の粉は足元に輪を成して燃え上がり、火柱となって腰元を包んだかと思われると、煌めく色をそのままに杏子色の裳と化し、その裾がゆらりと踵にもたれかかる。腕を包んでいた紅炎を緋色のうすものの上衣として纏うと、その羅から自ずと放たれる金の火炎の帯は領巾ひれとなる。



 玲子は朱雀に変身した。

 


 杏子色の裳の腰を木守にもたせた朱雀の手が片方ずつ中空で何かを捉えたのを、翼と玄武とは見た。朱雀の掌のなかで銀の銃身が束の間鮮やかなくれないに照り輝いた。右手の蛍火と、そして左手の短夜と――ほんの一瞬、左手の短夜に落とされた朱雀の瞳の深さを、翼は見てしまった気がした。だが、翼がそこに込められたものを見定める間もなく、朱雀はすぐに顔をもたげた。


「共に行きましょう、玄武、青龍」


 玄武と翼とは顔を見合わせ、そしてうなずきあった。誰がというのでもなしに皆が手を伸べ合っていた。重ねられた三つの掌の上に木守が尾を載せる――さあ、急がねば!


 駆け出すその背後、川面が何の先ぶれもなく燃え立ったのに、玄武と青龍は気がつかない。



(……さようなら、柏木)


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