26-2 最後の夜

「ようやくお帰りですか、姫」





「あっ……」


 光なき紫紺のひとみ。眸の下に据えられた白い頬が凍えた月のおもてのように冷え冷えとして、黒い直衣のくびに迫られてなお泰然と佇んでいる。その背後でたぶの葉がざわめいているのはさながら闇がざわめいているようだった。この新月の夜に思いがけず現れた月光に慄いて。


 だけど、私は知っていたはずなのに……こうした時が来ることを、知っていたはずなのに、覚悟を決めていたはずなのに。あまりにも情けない。声も出ないほどに怯えている。前世あのときと同じだ――主上の首を前に悲鳴をあげ、恐怖にすくむより他なかった前世と。京を破滅へと導いた前世と。


 京姫を我に返らせたのは皮肉にも、後ずさりかけた左足の裏が乾いた土を捉える音であった。だが、姫はそれ以上後ずさることはできなかった。咄嗟に踏みとどまったためでもあり、知らぬ間にそばに寄っていた左大臣にその背を支えられたためでもあった。いつになく厳しい左大臣の視線に倣うというそれだけのことが、立ち向かう勇気をくれた気がした。京姫はひとつ瞬きをすると、翡翠の瞳を見開いて紫紺の眸を堂々と見つめ返した。


「……漆」

「亡国の姫よ、久しいな」


 亡国なんて言葉は知らない。だけど漆の言葉にまともに取り合ってたまるか。京姫は身を引き締めた――こうなったらなんとしても隙を見つけて、漆を倒す……!


「目的は何?」

「無論、お前たちを抹殺することだ、姫よ」

「いいえ、違うわ。わざわざ現世にまでやってきて、私たちを殺して、それでおしまい?違うでしょ?ううん、まだあるの。わざわざ藤尾さんの体を乗っ取ってまで何するつもり??」


 漆は格別驚いたそぶりもなく薄笑いを重ねた。


「転生がおさない智慧をいくらか磨いたようだな」

「黙れ!姫さまを愚弄するでないッ!!」


 怒れる獅子さながらに左大臣が吼える。しかし、やはり月影のような男は怖じる様子はなく、ようやく今その存在に気づいたとでも言いたげに左大臣を眺めやって、


「ご老体は変わらずだな。ために現世に来たと見える」

「その言葉、そっくりそのまま返すわ……!」


 姫はすかさず言った。


「あなたの目的がなんだろうが、私たちは絶対にあなたを倒す!何も奪わせない。何も失わない。漆、ここは私たちの時代よ。私たちは幸せになるために生まれ変わったんだから!」

「恋人以外、という意味か?」


 このまま漆に飛びかかれそうな勢いは意外な言葉で挫かれた。戸惑いながらも直感ではすでに言葉の意味を解き終えて胸がざわつきはじめるのを京姫は感じていた。漆の言葉に取り合ってはならないという自分自身への忠告は、その一瞬忘れ去られていた。左大臣が諫めるのさえ耳に入らない。


「どういう意味?」

「先ほど言ったではないか。『ようやくお帰りですか』と。貴様はここに帰ってきたのだ。忘れたか、姫よ?恋しい少年を目の前で失ったことを。あの時私はお前の命を奪い損ねたが、あの少年の命だけは奪うことができた。不遇の皇子みこの生まれ変わりを、結城司という少年を」


 ああ……!京姫は漆を睨みつけながら悔しさに唇を噛んだ。忘れるわけがない。忘れるわけがないじゃないの。今までだって、一瞬たりとも忘れたことがない。だって、司は私だから――それでも、目の前にいるこの男に、司の命が、司との日々が奪われたかと思うと、姫は青ざめるほどの憤りを感じた。姫は憎いという感情を知り初めた気がした。


「あなたなんかに……っ!」


 姫さま!左大臣の声が京姫を呼び戻した。はっとした。あやうく漆のペースに呑まれるところだった。隙をねらっていたはずなのに隙をねらわれていたのだ。しかし、漆は姫の様子をうかがうどころかもはや興味を失ったように視線を放り出して、熟し澱みゆく夜の底を打ち眺めているようであった。


「姫よ、今宵は新月だ」


 紫紺の眸がうつろな夜を仰いだ。


天満月媛あめのみちつきひめが羞じらいのためにみ顔を隠される夜。しかし、もはやこの世に天つ乙女はない。古き神々は疾うに世を去った。姫よ、可笑おかしいとは思わぬか?なにゆえに京姫おまえ現世ここに在る?もはや神はなく、たった一人、依代たるお前だけがこの地をうろついている不思議よ。お前は神の抜け殻に過ぎぬ……否、そのようなことは些事だ。だが、満月媛は気づくであろう。もはやみ顔を隠す必要もないのであると」

「何を……」


 トビーが再び低くうなりはじめた刹那、ふと、京姫は何者かのまなざしを感じて、背中がぞくりと粟立つのを覚えた。しかしそのまなざしは漆のものではない。漆の眸は姫を見つめてはいない。では、このまなざしはどこから寄せられるのか?そこに悪意が込められているわけではない。激しい感情の揺れ動きを伴わずしてただひたすらに姫に吸い寄せられている虚ろなまなざしは……?


 左大臣が示した方を仰いだ京姫は、新月の茫漠に捉えられた。それこそが姫に吸い寄せられているまなざしであった。女のおもてがそこにあった。


 女の髪は真空に――あるいは吹き荒れる大気に――たなびいて星を覆い、その肩は漆黒にふたつのあけの山を描く。豊饒なる海をなす胸乳は夜空を半ば覆い、下腹はまだ密なる椨の森に秘められたままであったが、やがては夜の闇をさらにかきみだすであろう。しかし、姫を絶句させたのは、やはりその虚ろなひとみであった。その眸のなかには羞恥と、憎悪と、悲しみと、深い愛が満ちすぎて、ゆえに全ての感情は凪ぎ、静止を強いられているのだ。


「満月、媛……」


 姫のかすれたつぶやきが到底聞こえたとも思われぬ。しかし、漆はうけがいのしるしにかすかに嗤った。


「なっ……あれが天満月媛ですと?」


 呆然とする左大臣の方を顧みずに京姫はただうなずいた。


「し、しかし、なにゆえに……」

「ふふ、滅びゆくものは何も知らずともよい……ふふ、姫よ、お前もそう怯えずともよいのだ。あれは死体に過ぎぬ」

「し……」

「満月媛の身は九尾の狐の力を取り込んで蘇り、そしてたちまち信仰なきこの世界に触れてのだ。まもなく満月媛の肉体は腐り、崩れおちよう。その血はこの地上を洗い、腐肉は地を肥やし、骨は種子となろう。終焉の先に開闢かいびゃくが待っている……姫よ、私は試してみたいのだ。私の手で、私の才知で、どこまで壊せるのかを、そしてどこまで創りあげられるのかを」

「それが……!」


 京姫は込み上げてくるものに言葉を枯らしかけた。漆の言葉は難解すぎた。だが、最後の言葉だけはわかった。死せる女神のまなざしの下にあって「試してみたい」などという言葉がいかに軽薄に響くのか、それだけはわかったのだ。


「それが目的だったというの?!それだけのために、今までどれほどの犠牲を……っ!」

「高みに昇るほど地上にあるものはますます遠ざかり、小さくなる。姫よ、私は昇りつめすぎた。もはや命ひとつひとつの重みも温もりも感じられぬ。私は神に近づきつつあるのだから」

「神は貴方のようではないわ」


 京姫は毅然として言った。


「天つ乙女の涙から玉藻の国は生まれた。満月媛の恥じらいから昼と夜が生まれた――神には人と同じ心があるもの。貴方にはない。貴方は神ではなくて、ただの化け物よ」

「お前が語るのは神話のなかの神だ。実在の神ではない。実在の神は元より無情で強大だ。時に神話もその姿を映し出している。『暁星記』に描かれた四神たち、荒ぶり心のままに世を乱していた獣たちの姿。あれこそ無情で強大な神の残影だ」


「——ああ、その通りだ」


 姫の背後に駆けつけてくる疾風。


「私たちは無情だ。おかげで躊躇わずに貴様の首を斬り落とせる」

「白虎!」


 振り仰いだ先の白虎は、純白のマントを靡かせて宵闇を薙いで立っていた。その右手には桐一葉を閃かせ、青ざめた頬に刃のほの光を受けながら、漆と月の女神とを静かに見据えていた。


「姫、もったいぶっている余裕はないぞ。ここで奴を仕留める」

「うん……!」


 夥しい氷柱の突端が闇を切り裂いた。その勢いたるや、互いにぶつかりあい重なり合いきらめく氷片を火花のように散らしながら、黒い直衣をめがけて突き出していく。


 京姫と左大臣も同時に動いた。左大臣が先導するのを頼りに、京姫もまた氷柱を駆けのぼった。氷柱の先にひらめいた左大臣の切っ先を漆は優雅に交わしたが、その先に京姫の瞳はきらめいていた。


『桜花爛漫!』


 色づいた花弁が漆の指先に触れたかと思われた。だが、その刹那、桜の花はたちまち夕闇に色を失い、烈風に乗って姫を襲い来た。姫の身は真後ろへとさらわれかけた。


「きゃっ!」

「姫さま!」


 左大臣が氷柱の突端から姫を庇った。姫を後ろから抱き止めた姿勢で左大臣は地面に降り立つ。その間にもいかめしい白髪眉の下から漆をねめつけていた眼に、つかの間影が差した。宙に述べられた氷のきざはしを白虎が渡っていったのだ。


 硬く冷たいものが鋭くかち合う甲高い音が降ってきた。左大臣の腕のなかで咄嗟に顔を上げた姫の目には、せめぎあう刃のきらめきがひらめいた。白虎の桐一葉と、漆の鎖鎌と。


「白き獣か」


 漆は三日月形の刃の向こうでほくそ笑んだ。


「懐かしい。あの頃は私も若かった。我が一族を唆し、謀反みかどかたぶけをなさせるなどと……些か粗の目立つ仕事だと思わぬか?白き獣の血筋も危うく絶やしてしまうところであった」

「!!」


 白虎の目が見開かれた瞬間、風になびいたいたその金糸の髪の先が宙に凝固し、氷の槍先が漆目掛けて突き出した。漆は哄笑とともに槍先を鎌で薙いだ。


「貴様がッ!!」


 地に降り立って虎は吼えた。


「貴様が母上を……ッ!」


 そしてはっと我に返る。私の母は衣の下に庇ってくれた貴き女人ではないのだと。私の母はどこにでもいるような、ただ笑顔の底抜けに明るい女性だ。


 逆上した眼に降りかかる氷の塊を、桐一葉が斬り捨てた。氷塊の向こうからこちらを見下ろす紫紺の光を、白虎は静かに睨み返した。


「……私が白虎であるのは今日で最後だ」


 白虎のつぶやきに目をみはったのは、左大臣に抱き起こされている京姫だった。


「白虎?」

「白虎の記憶に惑わせるのも。姫、君も覚悟を決めろ!私たちの変身はこれで最後だ。明日から私たちは四神でも京姫でもなく、自分の名前ひとつで生きるんだ。ここで前世からの全てを終わらせよう!」


 前世からの全てを終わらせる――紅の夜空、凶兆の月に氷の階を掛けて白虎は駆けのぼる。言葉の重みになかば目を眩ませつつ、京姫もその後を追う。左大臣の加護の両手を抜けて……言葉の重みを受け止めて、左大臣は姫の後にただ付き従う。


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