25-4 「堪忍しなさい、篝火」

「姫さま!このままでは逃げ切られますぞ!」


 ちょうど京姫も同じことを考えているところであった。いくら深手を負っているとはいえ、九尾の狐の移動速度は人の足で追いつけるものではない。九つの尾をたなびかせて飛んでいく獣との距離は次第に開きつつあった。何か方法を考えなくてはいけない。追いつくことは無理だ。なんとか九尾の狐の行く手を阻む方法がないものか。目の端に滲む遠く燃え立つ西日が姫をいよいよ焦らせる。


(せめて、弱点さえわかれば……!)


 不意に、野太い吠え声がした。京姫は声の方向をようやく見定められたとき、河川敷の斜面の上からきらめく琥珀色の毛皮が降りかかってきた。


「トビちゃん……っ!」


 魔性のものの気配を嗅ぎつけたのであろうか。立派な大型犬へと成長した結城家の愛犬トビーは、歯茎ごと白い犬歯を剥き出しに、九尾の狐の首に飛びかかりざまに食らいつき、川岸へと引き倒した。狐の動きは右目の傷のために一足遅れた。京姫の目の前で、九尾の狐は仰向けに抑えつけられ、その上ではトビーが普段の温厚さをかなぐり捨てて吠え狂っていた。九尾の狐はよほど動顛しているらしい。無事だった方の目を裂けんばかりに見開いて、口から泡を吹き、すっかりパニックに陥っている。左大臣と顔を見合わせた京姫はこくんとうなずいた。


『桜……!』


 ところが、やっとのことで得たチャンスもたちまち色あせてしまった。九尾の狐の目が泡の向こうから狡そうに京姫を射たかと思いきや、その冷酷な氷河の色が夕闇に溶けだして、掻き消えてしまったのだ。京姫と左大臣の口から同時に「あっ」という声がこぼれた。


「いやはや……!」


 頼もしいのはトビーだった。獲物を逃したトビーはわずかに飛びのいてあたりを見回しながら低く吠え、あたりを嗅ぎまわりはじめると、ふと何か啓示を受けたような聡明な瞳を夕風のなかにもたげて、姫と左大臣に合図するなり駆け出した。追うより他に選択肢はなかった。



 ……犬のあしうらが路面を踏む湿っぽい音と、犬の鼻が妖魔のにおいを嗅ぎ分ける機敏な音が京姫を導いていく。トビーは河川敷の急斜面を駆けのぼり、街中に入ってさらに南下し、次第に人気のないうら寂しい地域へと入り込んでいった。そこはこの町で生まれ育った京野舞にとっても馴染みのない地域ではあったが、だからといってまったく知らない場所でもなかった。



 波のように響き渡る緊急サイレンの合間に遠く聞こえる喧噪が、いよいよこの一帯の不気味なまでの静けさを際立たせている。夕日の色を一点に集めて不機嫌そうに黙り込んでいるカーブミラーに、駆けゆく姫の横顔が映る。不自然に途切れたガードレールの傍らには、大きく黒いバツ印がかけられた朽ちかけた看板がある。看板のすぐそばから、暗鬱な森に覆われた急斜面を古びた石段が力なく辿りはじめる。トビーの琥珀色の尾はたちまち森の暗がりに紛れて見えなくなった。姫の靴もまた、立ち入り禁止のロープをためらいなく超えていく。苧環おだまき神社の境内に踏み入ってなお、姫の足取りは変わらず追う者の足取りであった。


 夕闇のなかでつやめきを失ったたぶの葉が、廃神社を沈黙のなかに押し包んでいた。いつしか螺鈿との戦いで破壊されて以来、苧環神社はそのまま打ち棄てられ、さらに風雨に曝されて、拝殿は土台とわずかな残骸ばかりの惨めな姿となっていた。それは椨の落葉らくようおびただしい堆積かとも思われた。

 崩れた屋根の残骸に折れた柱がもたれかかっているあたりに暗闇があり、トビーは頻りに唸り立てていた。トビーの前脚に並んだ京姫は、なだめるように右手の指でトビーの頭にそっと触れた。


「篝火」


 馴染みある名の方で、京姫は呼んだ。


「あなたはずっと私を騙してたんだね。でも、あなたと一緒に九頭竜を倒した時のこと、いまでも昨日のことみたいに覚えてるの……なんでかな?」


 「姫さま」と左大臣が縛める――わかっている。口を聞いてはいけないのだと。でも、どうしても伝えたい。伝わらないこともわかっているけれど。


「あなたと一緒に戦ったこと、なんていうかな、全然嫌な思い出じゃないよ。だけど、あなたのことは許さない。絶対に何があっても逃がしたりしない。だから……だから堪忍しなさい、篝火」


 屋根と柱の隙間で闇が身じろぎをした。姿を現した白い生き物に、京姫はぞくりとするほどの嫌悪と憐みを同時に覚えた。トビーの毛が逆立つのを指先に感じる――もはや獣でさえもなかった。神の指先に宿らなかった生き物としか呼びようがなかった。そして、それこそが虚飾を剥がされた伝説なのだという…………

 

『……桜花爛漫!』


 桜の花びらが夕闇を色づかせ、虚ろな生き物の毛皮をも覆い尽くした。古くは天竺を、殷を、そして平安の世をもかきみだしたという殺戮と蹂躙の権化は、その暴虐にふさわしからぬ、美しくはかない終わりを迎えた。


 すっと力が抜けたような気がして、京姫は膝に手をつき、乱れた息をようやく整えた。全力で疾走してきたせいで脇腹や肺がきりきりと痛む。トビーが案ずるように身をすり寄せてくると、京姫はやっとのことで微笑んで「ありがとう」を言うことができた。その拍子になぜだか涙がぽろりとこぼれた。


「いやはや、お見事ですな」


 左大臣の口調には言葉通りにはいかない険しさがどこかにあった。きっと柏木のことを案じているのだと、姫にはすぐにわかった。涙を袖で押し隠して省みると、案の定、左大臣はうつむきつつもどこか遠くを見るような目をして立ち尽くしていた。


「戻ろう、左大臣。みんなのところに」


 風が長い髪をなびかせ、なおもしばし闇を漂う花弁が京姫の頬に触れた。姫は目を細めた。


 花弁はまた風に吹かれ、


 拝殿の瓦礫の上を舞い、





 ――――そして、握り潰される。

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