25-3 クレバス
「行くぞ、姫!左大臣!」
白虎が駆け出した。九尾の狐の巨躯が激しく水柱を上げながら川のなかに沈みゆくのが見えた。京姫と白虎が待機していたところより南の下流側、白虎の足ならばたちまちたどり着ける地点であった。
上空にたたずんでいた龍の姿が青い光と化して消えた。波頭の名残にすくわれつつも落下する少女の身に、白虎の頭からぴょんと飛び降りてすかさず左大臣が駆け寄った。抱き止められた青龍は意識を失っているようだった。姫は思わず身を乗り出した。
「青龍……!」
「ここはお任せくだされ、姫さま!それよりも九尾の狐のやつめを!」
白虎は京姫を下ろすと、ひらりと鮮やかに跳躍して、白いマントをはためかせながら対岸に降り立った。水晶のような
『いいか、姫?九尾の狐が水面から飛び出てきたときがチャンスだ。私の氷でやつの動きを少しは止められるはずだ。その隙に攻撃するんだ。左大臣と私で援護する』
京姫は大きくうなずいた。
『だが、気を付けろ。やつは悪賢いぞ。油断はするな』
東雲川の河川敷に街灯はまばらである。宵闇に冷えゆく川面は流れさえももはやその流れも定かではない。白虎の氷柱さえもがはやくもきらめきを失って、昼の光に弔意を示し、岩のように
(集中して……敵を探すの。あの時みたいに。翼が青龍だって初めて知った時みたいに)
「姫っ!」
まだ何も感じ取れぬうちに、白虎の鋭い叫びが姫を揺り起こした。まさしく白虎の示すところから水柱が噴きあがるところであった。
敵は水中で川を下ったのだ。水柱は落下地点からさらに南に下ったところから噴きあがっていた。京姫は咄嗟に向きを変えて構えた。唱えようとする舌がもつれかける。
『桜……!』
そして気がつく。ちがう!水を纏っている、あれは九尾の狐じゃない。ただの毒の石だ。まだ九尾の狐本体は水中に潜んでるんだ……!
硝子が砕け散るような甲高い音の響きに、皆がはっとして氷柱の方を振り向いたとき、尖った小さな氷の破片が雹のように川辺の一帯に降り注いだ。誰もが咄嗟にその鋭い氷の針から目を守ろうとして、袖のうちに顔を伏せた。だから、京姫は何者かによって荒々しく突き飛ばされるまで自身に迫り来る事態も知らないままだった。
川のほとりから河川敷の斜面の中腹まで突き飛ばされ、京姫は草の上に伏した。氷の破片に傷ついた素肌に濡れた草が貼りつくのを感じながら、京姫は顔を上げる。いったい何が起こったっていうの?今のは敵の攻撃なの……?
砕かれて尖端を失った氷柱の痛々しい断面が、最初に京姫の目に突き刺さった。それからそこに点じられた夕日の最後の輝きが指し示す方へ、つい先ほどまで自分が立っていたあたりに目を移して、京姫は声を失った。
氷像のようにそこに立ち尽くしているのは九尾の狐である。いくらか弱り、その大きさこそずっと縮まりながらも、濡れそぼるようすもなく白い毛並みをなびかせた妖は、もはや獣性からも理性からも見放された三日月型の卑しい目で京姫をにらみつつも、後ろ足だけでその場に踏みとどまっていた。九尾の狐を阻むものがあったのである。獣の前脚がその者の腰のあたりを捕らえている。耳元まで裂けた口が、黒いスーツの腹にかけてを咥えこんでいる。
青ざめた顔がこちらを振り見た時、その三白眼が何か痛烈な感情を京姫に向かって撃ち込んできたような気がした。
(なんで、私を……だって、あなたは…………)
なにか硬いものとやわらかなものを同時に噛み砕くようなぐしゃりと音がして、東雲川の流れが宵闇に紛れず赤く染まった。
「右大臣殿……!!」
バーンと何かが弾けるような音とともに、白面の獣は引き剥がされたように柏木の身から離れ、四肢を激しくばたつかせながら空に飛び上がった。右目があるべき場所には
「姫、後を追うんだ!」
白虎が怒鳴り、京姫は駆け出した。自分が動揺していることを姫はよくわかっていた。だからこうして走っているのがなんだか自分自身ではない気がするのだ――しっかりしなさい!と、京姫は強く叱って唇をほんの一瞬強く噛んだ。九尾の狐を仕留めなくては。なにがなんでも。それができるのは私だけだ……!
京姫と左大臣が駆け出すのを見送って(青龍は草原の上に寝かされていた)、氷の足場を伝って向こう岸へと渡った白虎は、草の上に倒れた男のそばに駆け寄るなり眉をひそめた。膝をついてスーツの袖を捲り脈に触れても、柏木の瞼は閉ざされたままだ。紙のように蒼白な瞼をも飛び散った鮮血が汚していた。見下ろす白虎の顔に、憐みと苦々しさが入り混じった表情が浮かんだ。
『玄武、聞こえるか?今からこちらに……』
「やめろ」
脈を取る手を取りかえす手の力は意外にも力強かった。しかしその声音にはそれ以上に確固たるものがあった。
「食い荒らされた……どうせ助からん」
「だが……」
「柄にもないことをするな」
「お前のためじゃない。姫が悲しむからだ」
こちらを侮るような口調に、白虎もわざとらしく腹立たしげに言い返す。血を止めようと胸元へ伸ばされた白虎の腕を振り払い、柏木はようやく細く目を開いてせせら笑ってみせた。
「……悲しませておけ」
白虎はいよいよ眉をひそめた。
「どうして姫を庇った?」
柏木は答えようとしない。それとも答える気力もないのかもしれない。濁った咳とともに赤黒い血の泡がその口中にのぼってくるようだ。不遜な笑みを形作る口元をも、血は浸して言った。白虎は思わず顔を背けた。それは怪我人のあまりの痛ましさに、というよりは、いつかは決着がつくと思っていたこの男に対する感情が昇華されることなくここで掻き消えざるを得ないことへの痛ましさゆえであったかもしれない。憎しみ?妬み?否、この感情はきっと消えない。これからも白虎の胸に燻りつづけるのだろう。
その時、風に乗って玄武の声がした――もしもし、白虎?そっちで何かあったの?ごめん、さっきよく聴きとれなくて……
「お嬢様は……無事なのか?」
血の泡にかすれた喉で吐き出された問いを白虎は繰り返した。玄武からの返事は次のようなものだった。
『うん。意識はまだもどらないけど、傷は全部治したよ。そのうち気がつくんじゃないかな?』
「そうか……」
柏木が他意なく微笑むのを、白虎は初めて見た気がした。もし状況が違っていれば白虎も同じ微笑を浮かべたであろう。たとえば、自分が柏木と同じ状況にあったとしたらならば。
『それよりそっちは……』
「白虎、早く行け……姫のもとへ……」
柏木は再び目を閉じていた。かくも相手が弱り切っていてもこの男に促されることを最後まで癪だと思っていることにどこか安らいつつ、白虎は立ち上がった。よかろう。柏木への感情が一生この胸に燻りつづけるのならば、この感情を手向けとしてやるのみだ。あとは仇を討ってやれば充分だろう。それでも駆け出すことを躊躇った背中に、最後の
「お嬢様を、頼む…………」
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