第二十五話 決戦!九尾の狐

25-1 「行ってくるね!」

「お嬢様っ!!」


 舞の手から玲子を奪い取り、すばやく正確な手つきで玲子の呼吸と鼓動を確かめる柏木を前に、舞は血に濡れたまま呆然としているより他なかった。柏木が何か怒鳴っているが、その言葉は舞には聞き取れなかった。


「……舞、変身するんだ」


 震える声にささやかれ、舞はようやく振り返った。青ざめた舞の頬は、同じく青ざめた頬にぶつかりかけてその場に逡巡した。ルカの、否、白虎の瞳と舞の瞳は向かい合いながらもしばらくお互いを見つけられずにさまよっていた。


「九尾の狐を倒さなければ。放っておけばきっと悪さをする」

「玲子さんは……?」

「玄武が手当をしてくれている。大丈夫だ。だが、目覚めるまでは時間がかかるだろう。私たちは戦わなくては。いいね?」


 うつろな瞳のまま舞はうなずいた。よろめきかけながらも立ち上がったその時、舞は約束を思い出した。今日の午後四時に、桜花神社の拝殿で…………


「京野!」


 血まみれのワンピース姿に驚愕したらしい司がいつになく取り乱した様子で駆けつけてきて、咄嗟に舞の手を取った。その勢いたるや、白虎さえも弾き飛ばしかねなかったほどである。


「どうした?!あの化け物にやられたのか?!」

「ううん、私は平気……それより結城君、早く逃げて。私は戦ってこなきゃ」


 少女の翡翠の瞳はその時ようやく意志の輝きを取り戻して、緋色の空に浮かんだ白銀の獣の姿をまっすぐに射た。桜花市のはるか上空にたたずみ、嘲るような三日月の目で地表を見下ろし咆哮を上げる魔性の狐――たった今、驚き、震えながら空を見上げているであろう多くの人々のおもてに影を落としているであろうわざわいの獣。青龍と白虎はすでに討伐に向かったらしい。舞も後を追わなくては。


 舞の瞳は再び、不安げな司の宵の瞳のうちに潜り込んで、さびしげに微笑わらった。


「大丈夫だよ、絶対に守ってみせるから。何があっても」

「……ああ、信じている」


 司の言葉が舞の微笑を崩したのは、それが予期せぬ言葉であったためというばかりではない。舞はもしかしたらどんな言葉よりもその言葉を待ち望んでいたのかもしれない。京姫と紫蘭が星降る野で別れた遠いあの日からずっと。



 大丈夫だよ、私が絶対にそばにいるから。何があっても――



 舞の手を両掌でしっかりと包み込んだまま司が屈みこむと、不安に揺れるその瞳は舞の前髪の影にかき消された。舞の額に額を押し当てて、司は言った。


「待ってる。だから、無事に帰ってきてくれ」

「……うん」


 司の体温が一呼吸分ぐらい遅れて舞のなかに流れ込んでくる。ぎゅっと司の手を握り返して、舞は司に見守られながらも後ろを顧みた。玲子は柏木に抱きかかえられ、玄武がそのかたわらに跪いて傷口に手をあて、必死に癒しのことばを唱えている。ただの傷口ではない。腹を喰い破られたのだから、癒しの術を使うにしたとしても難しそうなものだが……いや、大丈夫、玲子だってきっと助かるはずだ。玄武がついている。


 それに私たち、ここで倒れるために生まれ変わったんじゃないもの。みんなで幸せになるために――


「行ってくるね!」


 司の肩にぽんと手を置いて、舞は駆け出した。石段の最上段からひらりと宙へ身を放り投げたその名残に、鳥居の下にはやわらかな毛先が残った。



 掲げた桜の鈴にご神木の桜の花びらが触れた時、鈴は光を放った。さながら花の嵐が湧き起こったように夥しい桜の花が舞の身を包み、血に塗れたワンピースをきらびやかな麗しい衣装に変えていく。両の腕には桜の色をそのままに透かした袖が、胸元には桜の花弁をそのままに襟元に散らした背子が現れる。背中から体を取り巻いた桜は一筋の川を作って領巾ひれとなり、舞の腰元に巻かれて大きなリボンを作った。太腿を取り巻いていた桜はレースの裾のついたピンク色のミニスカートに、足元の花弁はピンクゴールドの靴に。腰元まで波打つ豊かな髪の頂をピンクゴールドの宝冠ティアラが飾った。


 華麗に降り立ち、再び駆けだした京姫の後ろには狩衣姿の翁が続いた。


「姫さま、あやつめを倒すのはなかなか厄介ですぞ!なにせ天に浮かんでいるのですからな。こちらの攻撃も滅多なことでは届きませぬ」

「うん。でも、なにか方法があるはず……!」


 参道の始まりにある一の鳥居の下に青龍と白虎が立ち尽くしていたのも、まさしくたった今、京姫と左大臣の話題にのぼったことを考えあぐねてのことらしかった。白虎は顔だけで振り返り、京姫を認めてうなずきながらも眉をひそめた。


「さて、どうやってあいつに近づいたものか」

「あたしの水柱でもさすがにあの高さは無理。おとりになっておびき寄せるのは?」


 と青龍。しかし、白虎は浮かない顔をした。


「はたして囮に引っかかるかな?あいつはもはや私たちなど目にないようだ。このままどこへ行こうとしているかもわからない。この場に留まるつもりか、はたまたどこか別の地へ移るつもりか。いずれにせよ悪さをしでかすことだけは確かだが……」


 九尾の狐のやかましい咆哮が白虎の言葉を掻き消した。一同が揃ってその巨躯を見上げると、狐は赤黒い口腔もあらわに耳元まで裂けた口を殊更大きく開くや否や、毒々しい暗紅色の塊とも液体ともつかぬものを地上に向けて吐き出した。桜花神社の高台の上から見ていた京姫は、吐き出されたものが街の南の方に落下して、何かが灼けるようなと共に煙を吐き出すのを目撃した。おぞましい光景であった。


「な、なに、あれ……?」

「いやはや、詳しいことはわかりませぬが、我々にとっては毒に違いありませぬ。九尾の狐はかつて討伐された後、殺生石せっしょうせきという毒の石に変化へんげしたとの伝説がございますからな」

「あれをそこらじゅうに撒かれたら溜まったものじゃないわっ!白虎!ジェット機でもなんでもいいから、あいつに近づけないわけ?!」

「ジェット機ならうちにあるが、飛行して近づいたとしても恐らくは撃墜される。しかし、このまま見ているだけという訳にもいかない。とにかく、あいつの足元までは近づくぞ!」


 白虎と青龍の後を追って踏み出した京姫の足が不意に止まった。そんな経験は絶対にないはずなのに、大きな鳥に乗って空を旅したことがあるような記憶が姫の脳裏を掠めたのであった。あの鳥は……あの鳥のことを、姫はよく知っていた。約束したのだ。いつか南へ、海へ一緒に行こうって。


「ねぇ、朱雀。いつかは私を背中に乗せて、海に連れていって。ねっ?約束よ」


 ああ、そうだ。あれは朱雀だった――


「待って!」


 京姫の声に、石段の半ばで青龍と白虎は立ち止まり、姫を振り仰いだ。その顔に浮かぶ果断な表情が、姫の躊躇を蹴り飛ばした。迷っている暇はないのだ。確信はないが、可能性があるならそこに縋るべきだ。今は一刻を争う事態なのだから。


 京姫は小さく呼吸をしてから、毅然と青龍と白虎を見下ろして語りだした。


「考えがあるの……」

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