24-7 災厄

「誰っ?!」


 翼の尖った声が、なごやかな空気を切り薙いだ。皆が驚いて翼の視線にならうと、翼は拝殿に昇る石段の真上、鳥居のあたりを睨みつけている。


「翼ちゃん、どうしたの?」

「誰か……ううん、いる。そこに」


 翼は鳥居の上から目を逸らさずに答える。しかし、無論そこには誰も、否、何もいない。何の気配も感じられない。当惑したようすのルカと目があった舞は桜の鈴を取りだしてみたが、特に異変もなかった。だが、確かになにかがおかしい。傾きかけた日が拝殿の瓦に遮られて周囲はにわかに暗くなり、急に吹きつけてきた風は冷たく、舞の背後で賽銭箱の鈴がけたたましく鳴り立てた。


「出てきなさい、何者なのっ?!」


「ばれちゃあしょうがないかぁ」


 正体を現すまでもなく、舞にはそれが何者であるかがわかった。雪原のごとき白銀色の髪をなびかせて、蒲公英たんぽぽ色の水干すいかんを着て。鞠を片手に尖った耳をぴくぴくと動かし、尾を揺らして鳥居の上に腰かけていたのは、他ならぬ篝火の姿であった。


 篝火の目が最初に舞の方を捉えた。


「やあ、舞お姉ちゃん。いつぞやはどーも」

「どうしてあなたがここに?」


 確か以前に篝火と出会ったのは煎湖せんじこだったはずだ。篝火は九頭竜を倒すのに協力こそしてくれたものの、戦いが済むと何も言わずに舞の前を去ってしまった。以来、舞は篝火を敵とも味方とも判断できずにいる。油断できない相手ではあるし、見かけに騙されてはいけないことも知っている。だが、戦わずに済むのなら、見逃すことができるのならば、そうしたい。漆のような宿命の敵というわけでもないだろうし、それにさほど極悪非道とも思えないし…………


「舞、そいつと口を聞いちゃダメ」


 翼はゆっくりと後ずさりながら、篝火から庇うように舞の前に右腕をひろげた。


「こいつは悪しきものよ。騙されないで」

「ひっどいなあ、翼お姉ちゃんったら。どこにそんなショーコがあるのさ?」


 鞠をもてあそびながらわざとらしく拗ねてみせる篝火に、証拠ならあるわ、と翼は毅然と返した。皆の目が篝火から翼の方へと注がれるなかで、翼は制服の袖をすばやく捲ると、その手首に巻き付けたブレスレットを篝火に向けて掲げてみせる。瑠璃色の玉をブレスレットにしたもの――人魚の島で旭さまという巫女にもらったと言っていた、数珠玉だ。数珠玉は内より海面のような澄んだ光を放っていた。


 鞠が篝火の小さな掌の上から零れ落ちて、石畳へとぶつかった。鞠は高く弾むどころか、どさりと鈍い音を立てて腐った果実のように崩れて散った。そこから瞬時に目を戻して、舞はぞっとした。ああ、この顔を知っている。昔、昔話の絵本で読んだ悪さをする狐の顔だ。口の端が耳元まで裂けて、目が吊り上がり、獲物を前にした肉食獣のように爛々らんらんと光っている。それはもはやこれまで舞が見てきた篝火ではなかった。


「お前の正体は知っているわ、九尾の狐っ!」

「……ばれちゃあしょうがないかぁ」


 ふっと篝火の姿が掻き消えた。翼、奈々、ルカは舞を庇うようにさっと寄り集まり、各々が鈴を取りだした。鈴はやはり鳴らなかった。篝火の気配を知らせているのは翼の腕に巻かれたブレスレットだけだ。


 左大臣がぴょんと舞のポーチから飛び出してきて、舞の右肩に立った。変身した方がよさそうだが、今この場で隙は見せられない。やはり油断していたのだ。翼が気づいた段階で、万が一のためにも変身しておくべきだったのに。冷たい風がワンピースの袖越しに舞の腕を粟立てる。


「姫さまだけでも変身を」


 銃を取りだした玲子が言った。


「大丈夫。私たちが守っていますから」

「でもね、ボクの狙いは残念ながら舞お姉ちゃんじゃないんだよねー」


 どこからともなく響く篝火の声。


「ボクの狙いはねぇ、実は玲子お姉ちゃんなんだよ」


 その時、はっと真上を向いた舞が見たものは、桜の樹の枝の上を素早くかける一匹の獣であった。その白い体が矢のようにひらめいたかと思われた瞬間、長い尾を天に向かって逆立てながら狐が玲子に飛びかかり、頬まで裂けた邪悪な口で、玲子の腹を喰い破った。


 世界の進み方が突如として遅くなった。鼻先を玲子の腹に突っ込む篝火も、吹きあがる血しぶきも、駆けつけてきた柏木も、みんなひどく鈍重な動きをするようになった。紅の瞳が見開かれるさまを舞は見た。眼鏡が飛び、レンズ越しに見えていたその瞳がいよいよ大きく開かれるのを、舞をまっすぐに見つめたまま離さないでいるのを、舞は見た。自分の右手がひどく遅れてその瞳に向かって差し出されるのも。


「玲子!」

「お嬢様!」

「玲子さんっ……!!」


 自分の声がようやく追いついてきたときに、世界の進み方は元に戻った。崩れ落ちた玲子の体をルカよりも柏木よりも先に、舞の手が抱き止めた。舞は、玲子の顎がぐったりと肩にもたれかかるのを感じ、地面についたはずの膝が生温かい液体の溜まり場に沈んでいることを感じた。玲子の背にあてたはずの手がべっとりと濡れたのに気づいて、舞は恐る恐る掌をもたげた。案の定舞の掌は一面血に染まっている。けれども、もっと恐ろしいことは、触れたはずの部分に何もなかったということではないだろうか……舞の手が小刻みに震えはじめる。


「玲子さんっ!!!!」


 叫ぶ声が裏返った。こんなの嘘だ。嘘に決まっている。そんな、ダメ。ダメだよ、玲子さん、死んじゃ嫌だ……!


 翳りはじめた空に咆哮が轟いた。雷鳴とは違う。鼓膜をつんざかれるような、甲高い、金属質さえ帯びた、聞くに堪えぬ声であった。ほとんど無意識のままに、うつろな目で舞は背後を振り仰いだ。


 桜花市の緋色の空に、雪原のごとき白い被毛が持った獣が、地表に影をくっきりと落とすほどのその巨躯を浮かべていた。刃のように白銀にひらめく爪、赤く染まった口元、滴る血と見紛うばかりの舌、吊り上がった三日月型の赤い目。そして、なによりも九つに別れてたなびく雲のごとき長い長い尾…………




 ……白面金毛九尾はくめんこうもうきゅうびの狐が今こそ蘇ったのであった。

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る