24-6 桜の下に

 桜花神社の石段を舞は軽やかに駆けのぼっていく。つい先日、デパートで母に買ってもらったばかりの(一生懸命がんばって試験勉強をしたご褒美に)桜色のワンピースの裾に春の泥濘を思わすなまぬるい風が吹くと、白いはぎが健やかにひらめき、真新しいエナメルの靴がつやめいた。小さな膝がポーチを鞠のように蹴り上げると、その度に左大臣がいちいち声を上げた。


「姫さま、おしとやかに歩きなされ!」

「おしとやかになんかしてらんないもん!」


 そうだ。おしとやかにできたとしたって今日はしないんだから。テストから解放されたし、これからだんだん温かくなっていくし……こんなに楽しい気持ちは久しぶりだ。それに、この石段を昇りきったらもっともっといいことが待っているのだし。


 ゴールテープを切るように鳥居の下をくぐりきった舞は、息を弾ませつつそこでまず一礼した。午後四時少し前。神社を訪う参拝客は舞の他にはいないようで、夏祭りの賑わいからは信じられないほど境内は静まり返っている。風が樹々の枝を揺らす音が身をくすぐるように感じられるほどだ。夜店が軒を並べていたあたりを駆け抜けつつ、舞は意味もなくくるりとバレリーナのように一回転してみたり、ふわりと飛び上がってみたりする。


「お、お怪我をなさいますぞ、姫さま……!」


 いい加減に酔ってきたらしい左大臣が、ポーチのなかにうずくまって言った。


「だいじょうぶ!だいじょうぶ!」


 今の私にはどんな不幸だって訪れそうにないんだもの、と、舞はこのまま空へと駆けのぼれそうな気がしながら拝殿へと続く石段を一段ずつ飛んでいく。約束の場所はこの先だ。


 最後の一段を飛び上がった舞は、思わず息をのんだ。


 雪のように舞の頬にこぼれかかったものは、ご神木のはるかな木末こぬれよりもたらされたものであった。桜がすでに咲き初めている――午後の日差しに透かされて色は淡く、枝の色を背にしてほのかに滲み、ようやく輪郭を描き出している。目をしばたいて幻ではないかと疑ってしまうほど、はかない開花であった。


 ふとなにかに気がついたように桜の花から目を落とした舞は、桜の巨木の向こう側に車椅子の少女の姿を見つけて翡翠の目をみはった。あちらの方ではとうに舞の存在を知っていたのであろう。紅の瞳がまっすぐに舞を見つめ返していた。


「玲子さん」


 あっ。あの時、夏祭りの日は呼べなかった名前、あっさり出てきたな……


「舞、貴女も桜を見にきたの?」


 車椅子を寄せながら玲子が尋ねた。舞も歩み出した。ご神木の前で向き合った時、二人の目は互いの顔から花の方へとおのずと吸い寄せられていった。それは相手に関心を失ったというよりは、花の上にこそ相手の心があることを悟って、もっと深くかたみに注視しあいたいがゆえの所作であった。


「この神社の桜はこの町のどの桜よりも早く咲いて、そして最後に散るという話よ。知っていて?」

「いいえ。でも、それって本当なんですか?」

「わからないわ」


 玲子はさらりと答えた。


「でも、神がまだこの世界に……」


 言葉の端が消えかけるとともに、玲子は急に夢から醒めたように、制服の襟の上で舞の方へと顔を向けた。


「ところで、どうしてここへ?」

「えっ?ええっと、その、ちょ、ちょっと用事が……!玲子さんこそ一人でどうして……」


「あっれー?舞ちゃんと玲子さん?」


 ずいぶんと聞き慣れた声がする。舞と玲子と、それから酔いが落ち着いたらしくポーチから顔をひょこりと顔を出した左大臣も、一斉に振り向いた。白いシャツに黒のオールインワンという合わせでコーディネートをきめた奈々が、石段を昇ってくるところであった。


「と、左大臣もか。やっほー。どうしたの?デート?」

「えっ?!なんで……」

「偶然出くわしたのよ。奈々こそどうしたの?」

「あたしは受験の合格祈願。もう試験も終わっちゃったし、できることもないから神頼みでもしておこっかなって」

「奈々殿、桜花神社に学業成就のご利益はございませんぞ」

「そうなの?」


「えっ?あれ?なんでみんなが?」


 すごい!増えた!!舞と玲子と左大臣と奈々が一斉に振り向くと、桜花中学のセーラー服姿の翼がびっくりして立ち尽くしていた。


「翼ちゃんこそなんで?」

「あたしはお参りに。一番上のお姉ちゃんが結婚することになったから、夫婦守りを買おうと思って」

「いやはや、それはおめでたいですな」


「おや、どうしたんだい、お揃いで?」


 まさかの勢ぞろい……!舞と玲子と左大臣と奈々と翼が一斉に見遣ると、立ち尽くす翼の後ろあたりに、彼女の制服である学生服と帽子をまとった姿でルカが現れた。


「私はミーチャにお使いでね。しかし、私に黙って集まるなんてひどいじゃないか」

「偶然なんですよ。信じられないけど」


 あれ、しかもここにもう一人加わることになる……?舞ははっとして頭を抱えた。どうしよう。なんとかしないと。鉢合わせはまずい……よね?まずくない?いや、でも気まずいでしょ、どう考えたって。左大臣がポーチの中から同情とからかいを込めてこちらを見ている気がした。もうっ、左大臣なんてやっぱり家に置いてくればよかった!


「しかし、初めてだな。こんなことは」


 翼と共に皆の群れに加わったルカの手が、ぽんと舞の頭の上に置かれる。


「私たちが偶然出くわすなんて。それも全員。それとも、これも前世からの導きなのかな?」


 舞は視線を頭に置かれた手をくぐらせるようにして、ルカを見上げてみた。ルカはまったく言葉の重きにかまわず微笑んでいたが、舞の胸には「前世からの導き」という言葉が響いたのであった――私たちは前世に導かれて、現世ここにいるんだった。思い出すだけでも耐えられないほどに悲しく残酷な前世。でも、かけがえのない前世。どれほど願ってももう帰ることのできない前世……


 偶然ではないのだ。舞と翼が同じクラスであったことも、奈々が中学校の先輩であったことも、ルカと水仙女学院の図書室で出会ったことも、夏祭りの日に桜花神社ここで玲子と出会ったことも。

 「幸せに、なって…………」


 それに、左大臣も柏木さんも駆けつけてくれたんだった――また舞い上がりたいような気持ちが戻ってきた。これからどんなに厳しい戦いが待っていても、どんなに辛いことがあっても、私たち、きっと勝てるよね。みんなで幸せになるために、生まれ変わったんだもん。舞は自分でも知らず知らずのうちに笑っていた。左大臣だけが怪訝な顔で舞を見上げている。


「誰っ?!」


 翼の尖った声が、なごやかな空気を切り薙いだ。

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