24-2 南へ

 ――けれども、かつて夢見た未来は、一度は現実になったではないか。


 そうだ。京に住まうことも許されぬ卑しく貧しい身分であったころ、まだ青ざめつつまどろむ空を、早すぎた日の出のように、輝く金色の鳥が訪い駆け過ぎるのを、少年は見たのであった。


 少年は狩人の血をたぎらせ、若さと本能のままに馬を駆けさせ、金色の鳥を追った。やがて、南の果ての地にたどり着いたとき、少年はそこが禁足地であると知りながらも、猛々しくいましめを破った。少年は生まれてはじめて海を見た。砂浜を見た。そして鳥を射るために矢をつがえたとき、そこで生まれてはじめて女人の裸身を見たのであった。


 女人とはいいながら、それはまだ幼い少女であった。鳥の姿を借りていたその最後の名残に、うなじから避けた豊かな紅の髪より輝く羽根を落として、少女は遠い海の向こうを眺めていた。やがて東から昇ってきた日差しが少女の肌を砂のように白くきらめかせると、少女はしとやかに歩みだして波に足を浸しはじめた。最初は柏木の耳を領すばかりにとどろいていた波の音は、少女の小さな足が水面をかきわけるささやかな水音にかき消された。


 その薄い胸までを海に預けたとき、少女は陸の方を顧みた。朝日のなかで心地よく目を閉じている少女の瞼に、両腕を垂れ、呼吸も忘れ、ただひたすらに目の前の光景に見入っている少年の影は映り込まなかった。波は戯れかかるようにかすかな飛沫を飛ばしては少女の頬を濡らしていた。少女は微笑んでいるように見えた。しかし、やがて柏木は気づいたのだ。少女が泣いていることに。


 その瞬間、柏木はそれまで生きてきた彼の世界がたちまち彼方に消え去り、乾いた木の葉が燃えるように、音もなく崩れ去るのを感じた。少年であった柏木には――いや、今でさえも――なにゆえに少女が涙するのかは理解できなかった。しかし、この南の果ての海に溺れる少女の涙が、自分には計り知れぬほど深遠な感情から、壮大な時間からもたらされ、滴り落ちるものであることだけは悟ったのである。ちょうど朝日が海を照らしはじめた、その目前の景色と時を同じくして、柏木は彼の地平が照らし出されるのを感じ、眩暈を覚えるような、息苦しい、切なる感情を知り初めたのであった。柏木はたまらなく少女に触れたかった。駆け寄り、抱きしめ、驚きに身をよじるであろう少女の身もろともに海に沈んでしまいたかった。けれども、その衝動と拮抗し得る程度に、少女を畏れてもいた。


 少女は再び燃え盛る鳥に身を変えて、来た空へと高く飛び立った。里へ下りた少年はようやくにして古老より、朱雀の力を授かったという幼い皇女ひめみこの話を聞き出した。




 ……群衆のざわめきを馬上で聴きながら、右大臣は祈りと裏腹に物事が急速に悪化していくときの、あの不吉な胸騒ぎを覚えた。もはや自らが人々にもたらすであろう動揺にも思い至ることもなく、右大臣は馬を乗り捨てるや否や憚りもせず人々を掻き分けた。


 京姫と頬を寄せ合い血の海に沈む朱雀の姿を、右大臣は一瞬地にうずくまる紅の巨鳥の姿と見紛えた。見開いた目に差し込んだ真昼の光が、たちまち幻想の帳を引き剥がすとき、右大臣は磔台の真下へ飛び出そうとして、刑吏の槍に圧し留められた。槍の向こうをかぎりなくこの場に不似合いな、限りなく優美なものがゆるりと通り過ぎて、朱雀のそばに歩み寄った。それは他ならぬの姿であった。


枳殻からたちの……!」

「宮さま、お立ちあそばせ」


 枳殻の女御は養父ちちおやには目もくれずに、悠然と、しかし深い慈愛を込めて朱雀を見下ろしていた。


「そこはあなたさまにはふさわしからぬ場所ですわ。ご安心を。民にはあなたさまに指一本触れさせませぬ、宮さま。お怪我の手当をいたしましょう。でもその前に、皇女ひめみこの威厳を民にお示しあそばせ。天有明星命あめのありあけぼしのみことの末裔の誇りを。その血が天の下しろしめた歴史は決して虚しくなかったのだということを」

「この血は受け継がれます」


 伏せたまま朱雀がつぶやく声が、右大臣の耳にはようやく届いた。


「女御さま……あなたさまの御腹みはらに」

「……憐れなお方」


 女御は言葉どおりのすなおな憐憫を垂れて言った。


「まだ神を信じていらっしゃるのですか。いいえ、あなたさまご自身が神なのですから無理もない。けれども、神々はたった今、ことごとくこの地を去りましたわ。わたくしも民もそのことを悟りました。京姫さまも。さればこそ、民の手によって儚くなることを、姫さまは肯われました。宮さま、あなたさまも人に戻られるときがきたのです……さあ、お立ちあそばせ」


 朱雀は微動だにしなかった。怪我のために動けぬのか、それともここに今立ち上がりつつある新たな世界を拒絶して立たぬのか、傍目にはわからなかった。ただその時、はじめて女御の瞳が右大臣の方へと向けられた。


 女御の頬は日のなかに白々と冴えていた。疲労も、身重の苦しみも、わずかたりともほのめかさずに、焼け残った柳の木のように、しなやかに涼やかに、女御は荒廃の中心に立っていた。女御がまとい、引き連れているものは、幾重もの帳の裏、濃密な香の中から取り出されてきたものであり、それはしとやかなねやの闇のうちにこそふさわしく作られたものであるはずなのに(それを作りあげた手のうちに右大臣の手も含まれているのだ!少なくとも右大臣はそれを磨きあげようとした)、乾いた日のもとにあって、刑吏よりも、怒れる民よりも、したたかにそびえているのはなぜなのだろう。絹のような柔い指に愛撫されるためだけに育て上げたものが、瓦礫を踏みしだいて恥じぬのはなぜなのだろう。いつもこちらを見て怯えていた黒目勝ちの瞳、あの瞳がもはや養父を見て少しも怖じぬのはなぜなのだろう。


「お養父とうさま、宮さまにお手を貸してさしあげては?」


 女御はそう言って、悲しげに微笑んだ。


 刑吏の槍がゆるみ、右大臣が戸惑いつつ一歩を踏みだした刹那であった。突如として磔台が燃え上がり、人々のどよめきが一斉に恐怖に歪んだ。誰もが昨夜の襲来を思い出したのである。聖なる炎と悪しき炎の見分けがつくものはもはやいなかった。神がことごとく去ったこの国では。


 右大臣もまたその一人であった。けれども、彼はその炎の正体を誰よりも早く知ることができた。胸元に重たい飛沫を浴びた右大臣は、驚きにみはった目を崩れ落ちる炎の台から下ろして、狩人であった少年時代より焦がれ続けてやまなかったものを見た。


 宝冠のごとく嘴をきらめかせる霊鳥、その嘴がまた、羽毛と同じ色に鮮やかに濡れる時、右大臣は飛沫の正体を悟った。



 朱雀、桜乙女の首を喰い千切ちぎりたり――



 それは『暁星記』の一文ではなかったか。



 それは神代の出来事ではなかったか。



 磔台が崩れ落ちる音よりもいっそう生々しく響いた、どさりという音は、呆気にとられていた群衆の目をも引いた。朱雀は金色こんじきの風切り羽を持った両の翼を広げてたけくと、白銀の蹴爪で土を蹴り、太陽を背に負う黒い鳥影となった。朱雀の声は雲をつんざいて地に降り注いだ。そこに人々は憤りを、苦悶を、嘆きを、思うままに聞いたのであった。


 人々の心が遠い空の果てより降りてきたころ、「ああ、女御様が」との声も「ああ、京姫さまが」との声も同時にざわめきのなかから聞こえてきた。地に伏す女の亡骸に右大臣はちらりと目を遣ったきりだった――おいたわしいことだ。なにもかくも残酷な最期を迎えずともよかったものを。俺がもし野に捨て置いていればあの姉妹も……


「…………南だ」


 言葉は漂う思いを断ち切って、花の吐息になまぬるく濁った風に放った。


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