第二十四話 果てる世界

24-1 左大臣の最期

 この腕を振りほどいて駆けていった朱雀を、右大臣が追わぬはずはなかった。相手は傷を負った深窓の姫君であり、一方で右大臣は武人として名を馳せ、たけるの名を授かった身であるのだから、後を追うのはたやすいことであった。しかし、その右大臣がやっと朱雀の姿を見出したとき、朱雀は京姫の亡骸の前に伏せていた。


 なぜ右大臣は朱雀大路を行く皇女に追いつき、無理にでも連れ帰ることができなかったのか。いまや朱雀は右大臣にとって何にも代えがたい貴いものであった。この焼け爛れた地にたったひとつ残された情愛の拠り所であった。たとえ彼女かのひとが愛する全てが滅びたとしても、彼女だけは守らなければならなかった。それだというのに……


 黒馬にまたがったその時、京の様子を探らせていた随身がすばやく駆け寄ってきて右大臣に耳打ちした。左大臣が自ら腹を掻き切って悶えているのを発見したと。東雲川のほとりのくさむらの内であったという。そうして随身が介抱しようとするのを押し留め、このまま死なせてくれ、できることなら介錯してほしいと懇願するのであると。


「宮さまを追え」


 右大臣は命ずるなり駆けだすと、もともと荒れ果てていたところが一層惨憺たる様相を呈している南の町を横切って、随身が告げた通りに東雲川の川岸へと出でた。川岸には生きているか死んでいるのかわからないような京の民が集っていた。皆火に巻かれ水を求めてここまでやってきたものと見える。倒れ込んだきり動かぬ者、川面に浮かぶ者、じっとうずくまっている者、手に結んだ水を我が子に飲ませようとするもその掌が爛れている母親、泣きじゃくる孤児みなしご……


 しかし、彼らに同情しているほどの時間さえ、右大臣にはなかった。ようやく葦原を何ものかが掻き分けた跡を見つけて馬を乗り捨て駆け入ると、果たしてそこに見慣れた獅子のような老人の姿があった。木陰にもたれた老人の狩衣の腹は血に染まっていたが、まだ荒い呼吸につられて上下していた。うなだれていた老人は、太い白髪眉の下から右大臣を認めると、皮肉めいたかすかな笑いを浮かべた。


「左大臣殿……」

「いやはや、これはこれは……助かりましたぞ、右大臣殿。どれ……介錯を……願えますかな?」

「なにゆえにせっかく助かった命を無駄になさるのです?」


 屈みこみつつ右大臣がそっけなく尋ねると、左大臣はどこにそんな気力が残っていたものか、かかと声を上げて笑い、そしてうめいて、


「いや、失礼。しかし、右大臣殿、今のは愚問ですぞ。姫さまをお守りできなかった……この老いぼれはその罪のために自ら腹を切りました。これほど明白なことが……ありましょうか……っ」

「問い方を変えましょう、左大臣殿。なぜ、貴殿は自ら死を選ぶほどの覚悟がありながら、姫さまをお守り申し上げなかったのです?なぜ……!」


 死にかけているとは思われない老人と、死にゆくものを看取っているとは思えない男の目が空でぶつかった。右大臣はその時、剣を手に左大臣と差し向かいになっているような気がした。これまでも幾度となく対峙してきた二人であった。九条家と二条家と、二人の背後に構えている家と家とが二人を対立させてきたが、その度に、片や老獪さで以って、片や慎重さで以って、衝突を回避してきたのであった。それは、互いの利用価値を認め合っていたためであり、または個人的な感情としては相手を決して好ましからず、されど憎からず思っていたためであり、言い換えれば二人は互いの才能と豪気とだけは信用していたためでもあった。その二人の大臣が今や睨み合っている――京が灰となり、まつりごとが打ち棄てられ、愛しい者の命さえ奪われかけているこの瞬間に。


 乾いた血に染まった左大臣の唇の端がめくれて、皮肉な笑いを形作った。


「では、わたくしめも最後に問いましょうぞ、右大臣殿……貴殿はなにゆえに生きるのかと」

「私は三の宮さまをお守りするのです」

「ほう、我が姪は無事であられるか」


 勝ち誇ったようなよどみない右大臣の口ぶりに、左大臣の皮肉めいた笑みが力ない微笑に変わる時、右大臣ははっと胸を衝かれた気がした。この老人に対してかつてない同情と親しみとが溢れだすとともに、一刻も早く朱雀の元へ駆けつけなければならないような衝動が右大臣を襲った。ほんの一瞬のうちに、わななきが右大臣の身を駆けのぼった。


「それはよかった。しかし、四神のなかでたったおひとりか、朱雀殿は……」

「……して、左大臣殿、介錯が必要でしたかな?」


 右大臣は静かに鞘から刀身を引き抜いた。昼の日を受けて、刃はたちまち色を失った。


「おお、まさしく。いやはや、世話をかけますな」


 左大臣は菓子を与えられた小児のように顔をほころばせた。


(俺は何をしているのだ)


 首筋を汗が伝っていくのを覚えた時、右大臣は急に今日という日の異様な暑さに気づいて驚いた。まだ雪の月である。黒髪が日を吸ってじわじわと温まり、頭皮までもが火照っていく。耳元に羽虫のうなりが聞こえる。この気まぐれのような温かさに誘われて水辺の草下より這い出てきたのであろう。今宵凍え死ぬとも知らずに。気まぐれ――全く今日この日ほど気まぐれという言葉がふさわしからぬ一日があるだろうか。


(俺がここにいるのはなぜだ。今、宮さまが危機に瀕しているというそのときにこの死にかけの老人の介錯をしているのはなぜだ。焼け滅んだ内裏を見た時、俺はこれからなんのために生きるかはっきりと悟った。他ならぬ宮さまのためだけに生きられるのだと、俺は不謹慎にも歓喜さえ覚えたほどだ。それなのになぜ、俺はしがらみに足をとらわれているのだ……)


「右大臣殿……」


 いつのまにか寝入ったようにうなだれていた左大臣が、うなるように低くしぼりだした。


「貴殿は、私を見下しておられるでしょうな。姫さまを守ることができなかった、この不甲斐ない翁を……しかし、右大臣殿。これだけは……これだけは知っておきなされ。貴きお方が、たとえどれほどか弱い少女おとめであれ、自らの道を見定めたそのときには…………臣下の者にはなにひとつできませぬ。ましてや、そのお方を守るだなどと、あまりにも畏れ多い……きっと、そういう目をなさりますぞ、我が姪も」

「たとえ三の宮さまが愛したすべてが滅びても、私は宮さまの命だけはお守りすると、そう決めました」


 午睡の寝言のようにかすれゆく声に、右大臣の言葉はあくまでなめらかであった。羽虫が汗ばんだ額のまわりを飛んでいる……


 老人はふっと微笑した。


「説教をするつもりではなかったのです。ただ、知ってほしかったのです。なにゆえにこの老いぼれが死に急ぐのか…………私は、姫さまのいない世界では、生きていけませぬ……右大臣殿、どうかお達者で」


 達者で――達者であれば何があるというのだろう。その果てに愛しい女性ひととの未来が待っているなどとは、右大臣にも信じられなかった。

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