23-7 触れ合うときは赤く

 …………………………


「……宮さま」


 小屋の外より男の声が憚かるように呼び掛ける。咄嗟にあばら屋の奥へと顔を背けた朱雀は涙を拭おうとして身に纏っているものにはそのための袖もないことに気がついた。


「お怪我は痛みませぬか?」

「右大臣殿、姫さまはいずこですか?」


 そっと歩み寄る男の影に、朱雀は丁重ながら素っ気なく尋ねた。


「一刻も早くお会いしたいのです。これからのことをお話ししなければ」

「なりませぬ。今はお怪我を治されることが第一だと、姫さまも」

「姫さまこそご無事なのですか?今いずこに……」


 遠雷のように、の音が低く地を伝ってきた。真昼の光を背後に立っていた右大臣が、先刻までの慎みも忘れ、獣のように朱雀に飛びかかり、その耳を塞いだときにはすでに遅かった。朱雀はその音の意味するところを知っていた。


「……姫さま」

「駄目だ、宮さま。聞いてはいけない」

「姫さまはどこです?」

「なにも聞こえない。さあ、お眠りなさい」

「姫さま……!」

「駄目だ!貴女まで殺されてしまうっ!!」


 右大臣の必死の制止にも関わらず、傷ついたか細い乙女の身は、屈強な男の腕をいともたやすく跳ねのけると、朱雀門近くの荒れ果てた路地を駆けだした。北へ。玄武門へと向かって。


 真昼の光線に空の色はよろぼい、焼け爛れた地は乾き切って、灰と砂煙と死のにおいとが駆けるそばから匂い立った。鼓の音は、地の下を巨大な蛇が這い来るように素足の裏にとどろいている。住処を、あるいは他のなにかを失い、瓦礫のなかにうなだれる人々は、駆け過ぎていく乙女の姿に怪訝そうに顔を上げたが、すぐにまた裸の膝の間にうつむいた。


(姫さま、ああ、駄目。貴女が処刑されるだなんてあってはならない……!)


 布で縛られた傷口が開いて滲み出た血が、朱雀大路の上を転々と赤く汚した。


(貴女は京を守るために戦ったのに。お優しい姫さま、おいとおしい姫さま。貴女は幸せにならなければいけないのに。母上に代わって、稲城乙女に、桜乙女に代わって。数多あまたの京姫たちに代わって……)


 かみ殺した嗚咽が喉を塞ぎ、呼吸を妨げる。この荒れ果てた地に今、乙女たちの屍が晒されているのだろう。玄武の、青龍の、白虎の屍が、この前髪を揺らす微かな風に吹かれているのだろう。




 でも、姫さま、どうか貴女だけは…………




 ……黙りこくった幾百という人々のせなの向こうに、世にも貴くいとおしいものが掲げられているのを認めた時、朱雀はほんの刹那、救いがもたらされたように錯覚した。まるで中空に神聖な玉座が据えられており、少女がそこに腰かけているように朱雀には思われたのである。だが、少女の身はその薄い胸から槍が引き抜かれるとともにはらりと中空から剥がれ落ちた。さながら、桜の花弁が宙に舞うように。そして、華奢な身にふさわしからぬ鈍い音を立てて地に落ちた。


 その途端、押し黙っていた人々は昂奮した獣の一団のように一斉におめきはじめた。彼らのうちの一人として、その時の感情を説明できるものはいなかっただろう。彼らは憤りながら憐れんでいた。憎みながら慕っていた。なにか、それがなにともわからぬほどに決定的な変質がこの世界に訪れたことを彼らは悟ったのだろう。それまで赤子と母を結ぶ臍の緒のように、人々と底知れぬ何かを深く結びつけていたものが切り離されたことを彼らは悟ったのだろう。それは玉藻の国の人々が開闢かいびゃく以来味わった喪失のなかでも、最も大きく甘美な喪失であったのだ。


 身をよじり、地を踏み鳴らす民の間を、音も聞かずに朱雀はすり抜けていった。人々の群れを飛び出し、桜色の屍に取りつく朱雀を妨げる者は誰一人としていなかった。


 京姫の屍の前に出でたとき、もう立っているほどの力さえも、この皇女には残されていなかった。朱雀は京姫に触れるより早く地にうつ伏せた。


 倒れた朱雀のすぐ目の前に、姫の顔はあった。朱雀に向かってうっすらとひらかれた翡翠の瞳はもはや輝きを失ってはいたが、その表情はかつて朱雀が見たどんな京姫の表情よりも気高く思われた。なんと美しいみ顔であろうか。けれども、この頬に朱が差し、この唇がなにごとかを言って微笑んだりすぼんだりすることも、このやわらかな眉が感情に合わせて自在に上がり下がりすることもうないのだ。この作り物のような小さな額、手を充てて熱がないかをよく確かめた。長いおぐしを梳いてさしあげるのが好きだった。そんなことさえももう許されないなんて。


(私をひとりにしないで、姫さま……)


 京姫のはだに触れようと手を伸ばしかけたとき、朱雀はそこにあるはずの左手が失われていることに気がつくのだった。ああ、と低くうめいて朱雀は地に涙を落とす。触れ合うときは赤く。京姫の亡骸が流れ出す血と、朱雀の左腕の傷口から流れ出る血だけが触れ合って、まざりあい、土の上を浸していった――


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