23-6 遠つ方より

 その前を通った時、恭しく頭を垂れていた柏木に、理恵子は一瞥をくれるでもなかった。ただ――そう、ただ、左手に抱えていた赤ワインのボトルを勢いよく投げつけただけであった。壁に叩きつけられた瓶は砕け、葡萄の飛沫が深緑色の破片とともにそこらに散らばって床を汚した。理恵子も柏木も目を合わすでもなく、また眉ひとつ動かすでもなかった。理恵子はまるで自分の行為そのものに気づいていないかのように。柏木は葡萄の果汁にスーツの背もシャツの襟も赤く浸されるのは当然だとでも言うように。


 実際、当然なのだ。そう柏木は胸につぶやいたかもしれなかった。なぜなら、赤星家の令嬢がまだ三つで、無垢で、無知で、母親からすれば目に入れても痛くないほどに可愛かったその時分に無理やり奪い取ったのは他ならぬ自分なのだから――柏木との邂逅によって(柏木自身はそれを「再会」と呼んでいたのだが)前世の記憶を取り戻した幼い少女は、もう無垢で無知ではいられなくなった。小さな身体に、みはられたあどけない瞳の向こうに、ひとりの貴い女人の人格が焔のごとく聳え立っていた。その焔のきらめきを、柏木はなんとしても聡い母親の目から隠さなければいけなかったのだ。


(俺のやり方は卑劣だったかもしれない、あの母親を罠にかけたのだから。だが、宮さまとて俺を恨むまい。俺は宮さまと約束した。俺は今あの約束のためにこの命の全てを捧げているのだ。あの約束を前に、宮さまへの愛さえもがもはや俺の行動原理からは遠ざけられてしまった……)


 すさまじい物音を聞きつけて、玲子が応接間の扉の隙間から廊下をうかがっている。惨状に驚いた玲子の表情が、柏木の三白眼の暗がりのなかで、遠い記憶として弾けた。







 ……貴き皇女ひめみこの目が最初に捉えたのは、屋根の破れ目に張り巡らされた蜘蛛の巣の煌めきであった。ここはどこかと問うより早く、皇女の意識を、鋭い痛みが押し潰した。床に敷かれた藤布のような織り目の荒い布を握る右手が辛うじて意識を離さなかった。左手は何も掴み得なかった。そこに痛みがあった。


 あばら屋の屋根を透く日差しは今日この日、風に舞い上げられることもなく、朱雀の皮膚の上にじっとりと汗の玉を結んだ。かたく瞑った瞼の裏にたちまち絵のように浮かんで躍り上がるのは、生々しい血の記憶、紅の月が照らす夜の記憶であった。そして、失われた月本来の光を宿していたのは、おぞましくも美しいかの男のかんばせ、闇夜を引き裂いたあの鎖鎌の刃……


「姫さま……!」


 はっとして再び開いた睫毛の縁を汗が伝い落ちる。そうだ。私は漆と戦っていたのであった。あの男は無慈悲でその無慈悲にふさわしからぬほどに強大でもあった。私の左腕はあの男の鎖鎌によって奪われた。倒れかけたこの身を咄嗟に抱き止めたのは、確か右大臣ではなかったか……


 しかし、それより姫さまはどうしたのだろう?紅の月が沈んだ今、漆は確かに倒されたはずだ。では姫さまはお役目を果たしたのだ。ああ、なんとご立派な姫さま……!だが、姫はどこにいらっしゃるというの?私はなぜこんなところに寝かされているの?誰によって?ああ、でもとにかく姫さまにお会いしなければ。主上を失い、京を蹂躙され、友の命を奪われた悲しみを、分け合わなければ。癒さなくては。


 姫恋しさに、朱雀は右の掌に顔を埋めて泣いた。こんな風に誰かを求めたことは、今は亡き父上皇を除けば、朱雀にとっては初めてのことであったかもしれない。朱雀の想いは母を求める幼子によく似ていた。


 朱雀のなかに燃え上がっていた神代の記憶は、その罪ゆえに朱雀のみに伝えられてきた古の乙女たちの情念であった。かつてまだ禽獣のなりをしたまがつ神であった自分を、ひとりの尊い巫女が屈服させた。その巫女の、桜乙女の美しさを、気高さを朱雀は愛した。恋と呼んでもよいほどに焦がれた。けれども、桜乙女の心は天つ乙女ただ一柱のものであった。


 姉に代わって朱雀が溺愛したのは妹姫の稲城乙女であった。桜乙女は稲城乙女を白菊帝に差し上げるつもりであったけれど、稲城乙女は何も知らずに豊かな野山に遊び暮らしていた。将来を固くいましめられた少女の想像はどこまでも自由であった。朱雀にこう言ったものだった――ねぇ、朱雀。南のずっと果てには海があるのでしょう?お前の翼なら私を乗せて連れていけるわ。ねぇ、行きましょう。そして二人で、誰も知らないところへ行くの。


(愛していたの。愛していたわ、あのお方を!なのに、朱雀わたしはあのお方を……!)


 ……あれもまた、紅の月が昇る夜だった。黄櫨一族はぜのいちぞくが叛乱を起こし、この玉藻の国が久方の野火に燃え立ったとき、桜乙女の行方はすでにどことも知れなかった。四神を従えた稲城乙女は、后の身でありながら、自ら戦地に赴いた。そこで黄櫨大王に対峙した稲城乙女は、他ならぬ姉姫の姿を認めたのであった。天つ乙女は気まぐれからかそれとも人智の及ばぬ深い叡知によってか、桜乙女の元を離れられたのだ。見捨てられた桜乙女の執着が月の女神の悲哀と結ばれたとき、桜乙女はまつろわぬ民の大王おおきみとなった。


 稲城乙女は姉姫を手にかけることができなかった。姉の身をひしと抱いた妹の背に、刃がにじり寄っていた。それを、どうして朱雀が見逃せるというのだろう?



「私は命ずる!姉上を殺したお前に、永遠とこしえの苦しみを与えるべく!……朱雀よ、お前はこの玉藻の国が亡びた後も安寧の水底に横たわることはない!お前は燃え盛る地獄へ行け。自らの焔で罪人どもを焼き尽くせ。その悪業を、その報いをとくと見よ!見続けろ!お前は自らの身を引き裂かれるよりもおぞましい苦痛を味わうだろう」


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