23-5 母娘

「玲子……?」


 白崎ルイは目をゆっくりとしばたいた。いつも会合で使用している応接間は一目で見渡すには広すぎるが、入り口に立っていても客人の気配がないことは確かだった。ルカが紅茶を淹れるために部屋を離れたつい十五分ほど前までは確かにここにいたはずの玲子がいない。


 なぜだかぞわぞわと嫌な予感がした。盆の上でティーカップがかすかになるのを抑えて、ルカはゆっくりと唾を呑みこんだ。フラッシュバックするのは、玲子がまだ仮死状態であったとき、玲子の姿が忽然と部屋からいなくなってしまった時のことである。あの時は篝火の仕業とみえて、実際は柏木が玲子を連れ去ったのであった。


 前回と違うのは、今回は玲子が自分で動けるという点だ。きっとお手洗いにも言ったのだろう。そうに違いない。そうと信じたい。なぜだ、こんなに自分が動揺しているのは。ルカは部屋のなかに急ぎティーセットを置くと、すぐに踵を返して部屋を飛び出した。ちょうどその時、廊下を歩む母と出会った。


「ル、ルイ?どうしたのよ、そんなに慌てて」


 母親のソーニャは娘の姿を認めるなり驚いたように長い睫毛をぱちぱちとしばたいて甲高い声で言った。


「いや、慌ててはいないんだが……玲子を見なかった?」

「玲子ちゃん?あら、玲子ちゃんなら今さっき帰ったじゃない」

「帰った……?」

「あら、柏木さんが迎えにきたのよ。なんでも急なお客様が来たって」


 母は、娘が眉をひそめた瞬間を見逃さずにぷっと吹き出した。


「……なんで笑うの?」

「ふふ、ルイってほんとうに柏木さんのこと嫌いねぇ」

「あいつはいけ好かないもの」


 あのいけ好かないボディガード――あいつは前世から面では生真面目な顔をしておきながら目的のためにならどんな悪辣な手も使った男だ。今だって忠実な顔をしておきながら、腹のなかで何を企んでいるやらわからない。玲子のボディガードだって?あの男が?臣下であった時分、不敬にも皇女すざくに触れたあの男が?


「そう?お母さんは好きよ。なかなかハンサムじゃない?体格もいいし。それに、あのお腹のなかでは何考えてるかわかんない感じもね」


 答えるのも嫌になって、ルカはただ肩をすくめるだけだった。それに、また柏木が玲子を連れ去ったかと思うとどうにも気持ちがむしゃくしゃして仕方がなかった。今すぐ柏木の顔面に一発お見舞いできればおさまるのだが。


 だが、一発お見舞いされたのはルカの方だった。ただし、頭に、想定よりも格段と優しくであったが。


「……なんで撫でるの?」

「かわいいなーと思って」

「母さん……!」


 ソーニャは高らかに笑ったあとで、今度は強めにルカの肩を叩いて応接間に押し込んだ。


「ほーら、お茶ならお母さんが付き合ってあげるから落ち込まないで。

 それにね、ルイ、柏木さんってよくわかんないとこもあるけど、玲子ちゃんのことすっごく大切に思ってるわよ。ルイと同じぐらい大切に。お母さんね、それだけはわかるんだー」






 紅の髪、紅の瞳、金縁の眼鏡――横顔だけ見ると、この女性ひとは自分によく似ている。しなやかな指に煙草をはさんでいても、スラックスの片足を曲げて壁に足裏を押し当てる無作法な、しかし実に様になる格好で


 横顔がこちらを向いたとき、玲子はようやくその女性が自分ではないことをはっきりと認めた。口紅に濡れた唇が如才なく母親の微笑みをこちらに向けるとき。


「玲子、学校はどう?」

「変わりないわ。遅れていた分の勉強も取り戻したし」

「貴女は私の子だから、勉強は問題ないわよ。ねっ、誠治さん?」


 笑って応えるのは桜花市長・赤星誠治である。いまだ仕事着姿とはいえ、娘の前とあって、今このひと時はずいぶんとくつろいだ父親の姿だ。


「私の子とは言ってくれないのかな?」

「ダメよ。誠治さんはどうせ裏口入学でしょう?」

「こいつは手厳しいな」


 親子三人の口からいかにも楽しげな品のよい笑いが同時にこぼれた。


「お友達はどう?仲のいい子はいるの?」

「それは問題ないよ。私の子だもの」


 横から父親が茶々を入れると、母親は煙を吐きつつめいっぱい顔をしかめてみせて、


「もうっ、誠治さんは黙っててよ」


 と言い、娘の方に視線を戻した。美しく優しい母親そのものの、如才ない視線を。


 赤城理恵子あかぎりえこ――世間では赤木李枝子の名で通っている――は、玲子の父親とは、つまり理恵子にしてみれば元夫とは、十七の年の差があった。赤星事務所でアルバイトをしていたことから誠治と出会い、結婚したのは、まだ理恵子が水仙女学院文学部の学生であった時分であり、マスコミではかなり大きく取り上げられたものであった。なにせ理恵子はお腹の大きくなったウェディングドレス姿を、惜し気なく世間に晒したのだから。


 理恵子は玲子が四歳の時に赤星家を出たが、その時すでに文筆の才能を示していた彼女は、小説、エッセイ、短歌、脚本、旅行記、時に暴露本、などなどジャンルを問わず猛烈な勢いで書き続け、国会議員の元妻の肩書なしに文筆家として確固たる地位を築き上げた。赤城李枝子の名は、現在テレビドラマの脚本家として最も知られているはずであったが、娘の方はというと、テレビドラマというものは愚か、テレビ番組というものまともに見る習慣がないのであった。


「あの子はどうなの?ホテルShirosakiのご令嬢でチェリストの」

「えぇ、ルカはいい友達よ」

「学校では彼女が介助してくれているそうだよ。本当にルカ君はいい友人だ」

「あら、学校では柏木はついてないの?」

「女の園に柏木がいたんじゃ周りが怖がって誰も玲子に近づきやしないよ。それじゃあ玲子がかわいそうだ。なあ、玲子?」

「でも、そのためのボディガードなんでしょう?」

「まさか、学校では大丈夫さ。ルカ君もついているし」


 電話が鳴って、赤星誠治を自室に据えられた事務所に呼び出した。途端に、母と娘は黙り込んで顔を背け合った。母親は煙草を右手の指にはさんだまま、玲子に背を向けてゆっくりと壁伝いに歩きはじめ、ベランダ前のフランス窓を向いて立ち止まった。玲子は眼鏡の枠から、とても十六の娘がいるとは思えない華奢なその背中に目を遣って、膝の上に手を組みながら、人差し指で二度ほど手の甲を叩いた。


「灰を床に落とさないで」


 仕方なく玲子が言っても、母親は身じろぎさえする気配がなかった――早くお父さまが帰ってきてくれればいいのに。


「どうして来たのって顔してるわね」

「まともに顔も見ないで何を言ってるの」

「映ってるわ、全部」


 母親はそこでようやく後ろ手を伸ばしてテーブルから灰皿を引っ掴んだ様子だった。応接間のテーブルの上には父親が急いで用意させたささやかな歓待の品が並んでいる。母の好きだったイタリアの赤ワイン、グラス、これまた母の好きだったキャビアの載ったオープンサンド、果物など……


「別にあんたに会いにきたわけじゃないわよ。誠治さんに会いたかっただけ」

「呆れるわ。勝手に出ていっておきながら」

「誰だって帰るところは必要よ。あんたこそ、なんでわざわざ帰ってきたのよ。出かけてたんでしょ?」

「……お父さまに近づかないで」


 右手で持った煙草を左手の灰皿に押しつけながら、母親がおもむろに振り返る。柳眉は片方だけが吊り上がり、金縁の眼鏡の奥で瞳が妖しく輝いている。つややかに口紅を塗った口元にはたくらむような微笑が浮かんでいた。その微笑と、先ほどの如才ない微笑とはたしてどちらが忌まわしいか、玲子には決めかねた。


 押しつけた煙草ごと灰皿をテーブルに置く音が、鈍く、玲子を脅すように響いた。


「嫌よ。あたしはまだ誠治さんのこと、愛してるんだもの。誠治さんだってあたしのことが好きよ。だからこうして快く迎え入れてくれるんじゃないの」

自惚うぬぼれないで。あなたがどんな女か、お父さまだってよくご存知だわ」

「自惚れてるのはどっちかしらね」

「どういう意味なの?」


 言葉は弾丸のように飛び交い、頬をかすめる。


「あんたのために誠治さんがあたしを迎え入れるんだって、こう思ってるんでしょう?あんたが喜ぶから、誠治さんはいやいやあたしを受け容れてるんだって。ほら、図星?でも残念ね。あたしと誠治さんはね、今でも寝るわよ。世間は許さないけれど、あたしたちやっぱり愛し合ってるの。わかる?」

「……今すぐ出ていって」


 母親を正視することもままならず、玲子は肩を震わせていた。


「今すぐこの家から出ていって」


 車椅子ごとこちらに背を向けた娘の視界の端で、母親は長いこと真っ赤なマニキュアを施した長い指の間で紫煙をくゆらせていた。よくしなり、愛撫し、またはされるために創られたような蠱惑的な指である。しかし、その指ははたしてその瞬間、生まれついてのさがを覚えていただろうか。娘の視界の端にたたずみながら、眼鏡の向こうに娘の憤りを観察していたその時間。


「……これ、貰うわ」


 新たな吸いさしを灰皿に投げ込んで、理恵子はテーブルの上のワインボトルを引っ掴むと、ヒールの音高く玲子の前を横切って応接間を出ていった。娘の感情も言葉も彼女には何の効果も及ぼさなかったようだった。彼女が出ていくその背中で娘は吐き気をこらえるように口元を手で覆っていたけれど、理恵子は振り返るようすもなかった。

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