23-4 隠し場所

 思い出す――駄目だ。思い出そうとする……やはり駄目だ。なんど試しても同じだ。私はその女を覚えていない。いや、知らないのだ。


「無理なものは無理さ、玲子」


 肩に置かれた手が、玲子を月宮参りの日から呼び戻す。開いた瞳が一瞬、眼鏡を見失って、視界が歪んだ。だが、またすぐに平衡を取り戻した先には、スケッチブックに描かれた美しい女の顔がある。今、視界が歪んだその一瞬、その顔は憎むべきかの男の顔に見えたのだけれども。


「これに関しては諦めるしかないよ。タイムトラベルでもできれば別だけれど。私たちの記憶のなかに藤尾はいないのだから。左大臣も君のボディガードも彼女のことは覚えていない。彼女の物語は永久に閉ざされたままだ。私たちにわかっているのは、藤尾が月修院の巫女であり、何らかの要因で精神が未発達である、もしくは退行してしまった女であるということだ。このことに意味があるのかはわからないが」

「他者の身体を奪い取るじゅつがあると聞いたことあるわ。でもその伝承ははるか昔に途絶えてしまったと。月修院はその術を用いて藤尾の身体を奪った。なぜ藤尾の身体が必要だったの?……最後の扉だというのに鍵を取り落としてしまったのね、私たちは」

「いや、元から持っていなかったのさ」


 ルカはすたすたと壁にもたせかけておかれた机の上のスケッチブックをぱたんとたたんでしまうと、まだ絵が飾られているかのようにそこを眺めている玲子の方を振り返り、波打つ金色の髪のむこうから微笑みかけた。


「この件は終わりだ。奈々はお手柄だがね。私たちが別の扉に進まなければいけないことを教えてくれたのだから」

「えぇ、これは進歩なのかもしれないわね。でも歯がゆいわ。漆は今どこで何をしているのかしら」


 海原島へ行った翼と奈々の話から、漆が「信仰」の力を集めていることが明らかとなったが、その目的は依然として不明なままである。ただ、柏木がこんなことを言った。「信仰」の力によって、前世の傷を治療しているのではないか、と。


 漆が目覚めてからまもなく一年になる。正確にはかれこれ十か月だ。前世で京姫がどれほどの深手を負わせたにせよ、その傷を癒す時間は十分にあったのではないか。「信仰」というところでいえば、左大臣と柏木が全国の不可解な事件を収集している。判明したのはこの数か月で神社仏閣から村落の小さな祠まで、破壊されたり、何かが持ち去られている事件が多発しているということ。そして、不審な死を遂げる者や行方不明者が日に日に増加しているということだ。ある古い信仰を伝える孤島では島民全員が忽然としていなくなってしまったという話もある。漆は着実に準備を進めている。京姫を殺し、そしてなんらかの目的を遂げるための準備を。



 それなのに…………



 額に触れたやわらかな感触に、玲子ははっとした。いつのまにかルカが車椅子の前まで歩み寄っていて、玲子の額に人差し指の先で触れている。額というよりは眉と眉の間であろうか。


「眉間に皺が寄っているよ、玲子。せっかくの美人が台無しだ」


 どこか名残惜しげに指を離すとき、ルカは笑っていた。


「考えごとかい?いや、悩みごとかな?」

「いいえ、たいしたことはないの」


 自室の抽斗にしまわれたままの鈴……


「……そう信じたいわ」


 思わずこぼれた気弱な言葉に驚いたのは、ルカだけではなく玲子自身も同じであった。ルカはしばらく憐憫のこもったアイスブルーの瞳で玲子を見下ろしていたが、何も言わずに屈みこむと、先ほど指をあてていたあたりに接吻くちづけを落とした。こういうとき、どんな表情をしたらよいかわからず、目をつぶるほど無防備にもなれなくて、玲子はただ瞳を虚ろにさせる。


「お茶にしよう、玲子。待っててくれ。紅茶を淹れてくるよ」


 玲子の頭に手をぽんと置いて、ルカは部屋を出ていく。ふいになんの脈略もなく、玲子は前世の白虎の言葉を思い出した――君がまだ少女なのを私はすっかり忘れていたよ……


(私は本当に戦えるのかしら。あの時、必死に駆けたのに私は救えなかった。今は駆けることさえできない。いいえ、足のことは諦めるとしても、せめて変身さえできれば……)


 

 玲子の横顔が映る窓を覗きこむ影がひとつ。影はふわりと窓を離れてさらに上空へと浮かびあがる。稲穂のような金色の髪のあいだから突き出る雪のような白い耳、風を受けて揺れている豊かな尾――篝火の笑みが白崎邸の屋根の上に遊んでいた。


 あった、あった。ちゃんとしまっておいた通り。最後の宝物の隠し場所は、まだ漆さえも気がついていないようだ。


 ……かつて玄翁心昭げんのうしんしょうによって殺生石せっしょうせきが砕かれたとき、九尾の狐の魂はこの桜花の野に遊ぶ子狐・篝火に取りいたのであったが、その悪行は斎礼院によって見咎められついにこの地に封じられた。


 そして再び、螺鈿らでんの手によって封印が解かれたとき、は目の前に繰り広げられる戦いよりもなによりも、粉々に砕けて全国に飛び散った殺生石のことを、我が身のことを、この世で最も大切な宝物のことを思った。なぜなら、その石さえ集めれば、九尾の狐は甦ることができるのだから――かつて天竺を、殷を、京都を蹂躙したときの力を携えて。


(でも、漆のやつ、ボクより先にカイシューしてたんだよね。そんでボクは漆のやつのいい奴隷だ。前払いでいくらかもらえたけどさ、うん……しかし、あいつらのことだ。いつ返せといわれるとも限らないしさ、力ずくで奪われたらかなわない。ボクも賢いから、ひとつだけはしまっておいたんだよね。見つからなさそうなところに)


 篝火の頬がニヤリと裂けた。そう、我ながらナイスアイディアだった。誰も思いつかないだろう。漆でさえも、そして



 ――赤星玲子の腹のなかに、殺生石を隠しておいただなんて。


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