23-3 閃き

 カリカリとシャーペンを動かしていた手を止めて、翼はローテーブル越しに真向かいの人を見遣った。カリカリと鉛筆を動かしているのは奈々とて翼と同じだけれど、あぐらをかいた奈々がその手に広げているのは残念ながら教科書や参考書の類ではない。スケッチブックだ。これは絶対におかしい。


「奈々さん」

「なーに、翼ちゃん」

「受験、いつでしたっけ?」

「えーとね、来週?」


 答えながらも奈々は顔を上げようとはしない。翼はきりきりと胃が痛むのを感じながら、これまたずきずきしてきた額に手を当てた。


「あの、それ、実技試験の練習ですか?」

「ううん、ただの趣味」

「趣味って……」

「だいじょーぶ、だいじょーぶ!勉強はルカさんや玲子さんに散々見てもらったしさ、模試の判定だってばっちりだったし」

「そりゃ、奈々さんの追い上げ方はすごいですけど……」


 絵に関する奈々の技術はもちろん翼だって認めているのだが、奈々は都立の有名芸術高校に出願したのであるのだから安心はできない。それなのに、受験生当人である奈々の方はまったくもって余裕なのであり、はたから見ている翼の方が心配したり焦ったりと忙しない。呆れるとともに、翼はどこかで奈々がうらやんでいた。それはきっと、奈々がなんだかんだでうまくいくだろうということを本能的に知っていたからであろう。いや、自分だってうまくやってきた。でもそれは必死に積み上げてきたことによるもので、奈々のように、今までなにもしてこなくともその場になればぱっとひらめきが訪れるというようなものとは明らかに違っていた。きっと来年、翼は第一志望のために受からなきゃおかしいというほどの努力をして、そしてみんなの予想通りに受かるのだろう。それはそれで悪くないし、大変模範的なことではあるのだけれど。


「それにさ、ちょっと気になることがあって」


 再びノートの上に屈みこんでいた翼は、取り合うべきかどうか迷ってから聞き返した。


「うん。ほら、あのさ、旭さまの言葉の意味。漆のことを女って言ってたじゃない?」

「そうですけど、そんな引っかかります?漆って顔だけみたら女みたいに見えますよ。しかも旭さまは実物を見たわけでもないし……」

「ほんとにそうかな?」


 奈々の声のわずかな変調を聴きとって、翼は再び顔を上げる。厚地の布の裏を針がつついたようなほんのわずかな変調であったにも関わらず。一方で、奈々はこれという表情もなくうつむいて、右手だけをいっそう精力的に動かし続けていた。


「どういう意味ですか?まさか、旭さまが漆に会ったってことですか?」

「そうじゃないよ。なんていうのかな、その……」


 奈々の言葉は手先の動きに吸い取られてしまう。


「けっこう大事だと思うんだよね。だってさ、漆はもともと月修院だったわけでしょ?あのお坊さん。その見た目が急に変わって、それで……うん、それが女性に見えたっていうのは…………」


 独りごとめいてきた語りが消えたあとの沈黙を、翼はなぜだか不安な気持ちで見守っていた。なぜだかわからぬうちに物事の確信に迫ってきているような、今まで見過ごしてきた場所の前を何度も行き来しているような、そんな感覚だった。


 不意に奈々の鉛筆が止まった。奈々は鉛筆の先をスケッチブックの上に落としまま、しばしじっと自分の絵に見入っていたが、やがておもむろにスケッチブックを返して、やはり表情はないまま翼に尋ねた。


「これ、誰か覚えてる?」

「えっと……そうだ、藤尾さん」


 奈々はこくんとうなずいた。


「じゃあ、もう一枚見て。これは……?」


 凪ぎは破られ、水面のような瞳が揺らぎだす。めくった頁の下に現れた世にもいとわしいの顔、その前に示された無垢なるの顔、その二つが翼のなかではっきりと重なったのであった。


 でもそんなことってありえるの?これはどういうことなの?藤尾さんが漆?白い画面の上だけではなく、遠い記憶のなかでも二つの顔はひとつに結びつけられていった。今となってはどうして気づかなかったのが訝しく思われてくる。まるでだまし絵を見せられていたときのようだ。少女の横顔が老婆になり、家鴨が兎となることに気づいてしまってはもう戻れない。でも、そんなことって……


「ルカさんと玲子さんに連絡しなきゃ。あと舞ちゃんたちにも」


 と言って、奈々は落ち着き払ったようすで鞄から携帯電話を取りだした――ボタンを押す指先は震えていた。




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