23-2 キス

 立ち上がった舞にすかさず左大臣の叱責が飛んだが、舞は睨み返して「お茶もらってくるだけだもん!」と言い放つが否や、部屋を飛び出して階段を駆け下りていった。残されたテディベアと司が顔を見合わせて溜息をつく。


「まったく、姫さまときたら、前世とお変わりないのですからな。どれだけ私や青龍殿が苦労したことか」

「……容易に想像がつくな」

「しかし、前世の話をすると、奇妙なものですな。姫さまと紫蘭の君、言葉を交わすことすら許されなかったお二人が、今こうして仲よく机に向き合っているのですからな。そして、それを嬉しいと思う日が来るとは思いませんでしたぞ」

「仲よくは余計だ」


 司はほのかに顔を赤らめて目をわずかに逸らしたが、視線を部屋の扉の方に向けて舞がまだ上ってきそうにないことを確かめると、こほんとひとつ咳をして切り出した。


「左大臣、僕はずっと気になっていたことがある。市長の娘にも聞いたが、彼女は答えようとしなかった。教えてほしい……前世で京の護りが破られたのは、紫蘭が京姫を外に連れ出したからなのか?」


 ほんのしばらくの間、左大臣は黙っていた。それから、まっすぐな司の視線を捉えると、重たげな口調で簡潔にこう答えた。


「そうではありませぬ」


 司は一瞬瞳を潤ませ、恥じるように顔を伏せた。


「だが、紫蘭のせいということに変わりないんだろう?京の護りが破られたのは、紫蘭が、その、京姫を……」

「お二人の愛そのものには少しも罪はありませぬ、結城殿」


 左大臣は変わらぬ口調をひきずりながらも、よどみなく言った。まるで司を慰めようとでもするかのようだった。


「ただお二人のご出自が問題だったのです。結城殿、もしかしたら不愉快な思いをされるかもしれませんが、すでに終わったことと思ってお聞きなされ。これは宮中でもほんの一握りの者のみが知っていることでした。紫蘭の君の父宮は松枝上皇ではございません。本当の父宮は松枝上皇の一の君であった、藤枝帝でございます……」



 ……「えっ」と声が漏れそうになるのを、舞は咄嗟に抑えた。扉の前で。あたたかく思いものを胸に抱きしめながら。


「元々、紫蘭の君の母君であらせられた木蓮の更衣は藤枝帝の妃となるはずの方でございました。それを、松枝帝が横から奪いとって我が物としてしまわれたのです。全く、あのお方には似合わぬ強引ななさり方で、臣下たるわたくしもお止めする術を知らなかったほどでした。しかし、私の妹であった市松皇后が亡くなると、松枝帝は更衣をほとんど顧みられなくなりました。更衣が入内したときに皇后が散々大騒ぎをした、そんなことが思い出されたのかもしれませぬ。その折でしょうか。藤枝帝と更衣が密かに結ばれたのは」


 ああ、紫蘭さん、紫蘭さん、紫蘭さん。あんなに父宮の愛を欲しがっていた紫蘭さん。こっちを見て、と泣きそうだった紫蘭さん。それなのに、その父宮は本当の父宮ではなかったの?それはなんて……


「そうして紫蘭の君がお生まれになりました。松枝上皇は全てをご存知で、お酒の勢いで私に打ち明けなさったのです。そして、それから姫さまのご出自ですが……」


 舞にとっては永遠とも思われる数秒の沈黙が過ぎた。


「姫さまの父宮もまた藤枝帝なのです、結城殿。お母上はあろうことか、先代の京姫、藤枝の御方―― 一体どういった経緯かはわかりませぬ。恐ろしいことにそれが望んだことであったのかもわかりませぬ。ですが、かくして姫さまはお生まれになりました。おわかりでしょうか、結城殿。なぜ私がお二人の愛に罪はないと申したかが。かつて藤枝帝と藤枝の御方と結ばれた際、京の護りは破られなかったからです。京の守りが破られたのは、他でもない、お二人が異母兄妹ごきょうだいであったからだとわたくしめは考えております」


 うそ、という声は思わずこぼれた。くらくらして、ふらふらする。唐突に、舞は四月十二日の朝、巻き戻った一日の夢のなかで出会った女性のことを思い出した。舞によく似た、藤の枝の冠を戴いた美しい女性であった。あの女性が舞に呼びかけてくれたから舞は京姫として現世で覚醒したのである。左大臣はあの女性のことを先代の京姫と言っていたけれど、そうか、あのひとが私の前世のお母さんだったんだ。



『今度こそ幸せになって――わたくしは、いつも貴女を見守って…………』



 半ば放心していた舞は、その時、腕のなかから肉球がするりと伸びてドアノブを押したことに気づかなかった。「あっ」と叫んだ時はもう手遅れだった。愛猫は開いたドアの隙間から勢いよく部屋のなかに飛び込んでいき、間もなくテディベアの悲鳴が聞こえてきた。それに加えて姉が「うるさい!!!!」と怒鳴って部屋の壁を蹴り出し、舞の寝室はたちまち阿鼻叫喚の地獄絵図となった。もう、結城君が来てるっていうのに……!


 が、そもそもこんな状況を引き起こしたのは自分なのだと思い出すと、舞はどきどきしながらも扉の前で覚悟を決めて、部屋のなかに足を踏み入れた。はなちゃんがベッドの前に屈みこんで床との隙間を覗きこんでいるところみると、どうやら左大臣はベッド下に逃げ延びたらしい。司はぽかんとして猫の背中を眺めている――この期を逃してなんとするのだ、舞。


「ゆ……結城君!」


 と声をかけて、舞は司の隣に膝を落とした。じっと見つめ合う一秒。誰も見ていない一秒。舞は床に置かれた司の手の甲にそっと自分の掌を押しつけて、前へと身を乗り出した。


 …………初めて触れた唇の感触はささやかで、期待していたような幸福感からは程遠く、なにか物足りないような切なさとさびしさとを、まず舞は胸に覚えた。しかし、薄っすらと開いた翡翠の瞳で見つめる宵闇の色が、昼間の光を手放して、深い眠りに身を預ける時――あるいは司の手が寝返りを打って、震えながら舞の指先を握った時、舞はついに望んでいたものを得た気がした。


(よかった、結城君。私たち、生まれ変わって……)



 はなちゃん、お願いもう少しだけ時間をちょうだい。左大臣、その……




 ……ごめんね。


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