第二十三話 遠つ方より
23-1 その如月の日
俺はあのお方を愛していた。
俺はあのお方を愛している。
俺は今、この方を――
「柏木、出かける時間よ」
「おい、結城!サッカーやろうぜ!」
偶然自分の教室の前を通りかかった桜花中学二年A組担任菅野先生は、おやと思って聞き耳を立ててみる。今の声は東野恭弥だ。たとえ声がちがっていたとしてもそれは東野恭弥が乗り移った誰かだ。百パーセントまちがいない。
「悪いが、急いでいる……」
答えるのはもちろん結城司の声。ぶっきらぼうだが、前とはちがう。すげなく相手を振っているわけではない。今の結城はきちんと他人の言葉に応えることができるのだ。
結城司が教室を出てきて、菅野先生には気づかないまま、こちらに背を向けて去っていく姿が見えた。心なしか急いでいるようすだ。もしかしたら約束があるのかもしれないと、菅野先生は思わずひとり微笑んだ。
「ちっ、なんだよ」
「ふふーん、結城のやつ、また舞とデートなんじゃん?」
これは井並という女子生徒の声だった。いわゆる世間でいうギャルといわれる部類の生徒だが、素行は悪くない。人の恋愛に口を出すのが玉に瑕だが。
「やっぱり付き合ってるの、あの二人?」
「鈍いなあ優美は。どっからどー見たってそうっしょ。佐々木だって気づいて落ち込んでたよ」
「あっ、佐々木君舞のこと好きだったもんね」
「あっ、そうだ、東野、あんたなんか聞いてないの?あんた結城と仲いいっしょ、わりと?」
「知らねーよ。んなこと興味ねぇもん」
「ったく、このサッカー馬鹿が。というかさぁ、あんただって大体どうなってるわけ?」
「はっ、なにがだよ?」
「もしかしてこいつも鈍い?」
「り、理沙、私、東野君と一緒にされるのいやだよ?!」
やれやれ、十四の春はさまざまだ。恋する者、サッカーする者、しゃべる者。だが、それでよいのだ、きっと。そうやって君たちは成長していく。誰の手も借りずにすくすくと。見守る者は遠くにいればよいのだ――よく晴れた冬の午後であるせいか、いつになくすがすがしい気持ちになって菅野先生は廊下を歩んでいく。さて、学年末テストの作成にいそしまなければ。
いつもにまして勉強に身が入らない。このままでは塾に強制入会させられるというのに。英語の赤点が確実になってしまうのに。集中できないのはなぜ?こんなにも一生懸命、しかも以前よりずっと優しく、司が勉強を教えてくれているというのに。
いや、ちがう。きっとだからこそ……
「ぼーっとするな」
「いたっ」
おでこを指で弾かれて、舞は涙目になった。自室に和室から仕入れてきたちゃぶ台を置いて向き合う司の目にすでに優しさはない。
「ひとの話はちゃんと聞け」
「だ、だって……」
「だって、なんなんだ?」
「だって……」
舞は口ごもった。あと二週間ほどで学年末試験がはじまる。中学二年生としての最後の試験だ。ここでしっかり決めなければ来年は受験生なのだから後がないぞと両親にせっつかれた舞は、大の苦手の英語の先生を司に頼んだのであった。頼まれた司の方は快く引き受けてくれ(照れ隠しに二言三言文句を言ったとはいえ)、こうしてわざわざ放課後に舞の家まで足を運んでくれているのであるから、舞は確かにもっと集中しなければならないのである。しかし、舞には舞なりの理由があるのである。
(だって、顔、近いんだもん……)
舞はちゃぶ台の下でセーラー服スカートの裾をぎゅっと握りしめた。悩むことはただひとつ――ダメ?まだ早い?……してくれないかな?それとも、私からでもいいのかな?
「結城殿、きびしーくやってくだされ!姫さまはちょっとでも目を離すとすぐ逃げ出しますのでな」
背後から飛んできた左大臣の声が舞の甘い緊張感を突き破った。ベッドの上で仁王立ちしてさまざまな意味で監視をしている左大臣は、やはりさまざまな意味で舞にとって邪魔になっていた。散歩を進めてみたり、ルカの家に送り出そうとしてみたり、いろいろ試してはみたのであったが。
(これじゃあお父さんがいるようなものじゃないの……!)
舞はぷんすか頬を膨らませながら思い出す。人の恋路を邪魔するやつはなんとやら、って言ったっけ。えっと人の恋路を邪魔するやつは……馬、じゃなくて犬に?あれ、猫にだっけ?猫……?
舞はひらめいた。
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