22-7 女神

「      」


 藤尾は確かに誰かの名を呟こうとしたのだったが、その名がついに唇にのぼることはなかった。その直後に、藤尾の影は大きく揺れた。ちょうど藤の花房が風に吹かれたときのように。藤尾の身は、藤尾自身の意志とは全く関わらずに土の上に崩れ落ちた。つい先刻まで覚えのなかった息苦しさが胸元から込み上げてくるとともに、藤尾は冬の冷気が撫ぜるその下で急速にはだが火照ってくるのを覚えた。


 昼餉のあとで果樹の手入れをしていた藤尾であったが、果樹の木蔭に隠れそこね、冷たく厳しい冬の日差しを冠の上に受けていた。陽光に抑えつけられたように頭が重く、視界だけが激しく揺らぐ。救いを求めたくとも声は出ない。否、藤尾は救いなど求めようとしていなかったのだ。冷気に触れるそばから掻き消えてしまう声で藤尾が紡ごうとしていたのは、愛した人の名であった。永遠にこの地上から失われ、忘れ去られた名、それでも自分一人は覚えていられるものと信じていた名であった。今この瞬間、かの人は藤尾に触れ、藤尾は全身でそれを感じたのだ。


 やっとこぼれ出た名は、自分の名前であった。そのことに気がついた途端、藤尾は自分の名を呼ぶ声の嵐に取り巻かれた。それは皆違う声のようでもあり皆同じ声のようでもあり、優しく囁きかける声もあれば怒鳴るように呼びつける声もあった。そのなかに、藤尾はかの人の声を確かに聴いた。応えようとするとき、喉が熱かった。


 声がやみ、不意に訪れた静寂のなかで、膝の上に這い上ろうとする蟻の姿が滲んで黒いとなるのを藤尾は間近に見つめていた。滲み出たものがそのまま蟻の背に落ちたとき、藤尾はようやく口にすべき言葉を見つけたのであった。


「嘘つき……」


 ……そうしたらね、わたくし、もう二度と貴女のそばを離れないと誓うわ――


 水が湧き上がるように嗚咽がこぼれ出し、藤尾は両手で顔を覆って地に伏せた。今この瞬間、藤尾はもっとも残酷な真実に立ち会っており、しかもその真実をもっとも残酷なやり方で知らされたのだった。こぼれ出す涙にも声にも虐げられた者の怨嗟が刻み込まれていた。藤尾はかのひとの死を悟り、今、この世界のすべてを憎んでいた。いとわしい京、いとわしい国、いとわしい人々、いとわしい神!……ああ、神――!


(なぜ彼女だったの?お前はわたしから彼女を奪い去った。でもそれはわかるわ。彼女はとてもきれいだったもの。でも、でも……なぜわたしなの?なぜ?お前はなにもかもわたしから奪わないと気が済まないというの、天つ乙女よ!なぜ彼女の次がわたしなのよ?どうしてわたしが京姫なのよ……っ!!)


 わあっとほとばしる声とともに、藤尾は空を仰いだ。とめどなく流れ落ちる涙を薄氷のような陽はあくまでも冷徹に乾かそうとするだけである。淡い空の色は藤尾の涙とは溶け合わず、涙越しに藤尾が眺める世界にすでにかの女はいなかった。かの女は最後の別れのために藤尾に触れて、そしてそれきり永遠に去ってしまったのだ。


「嘘つき、嘘つき、大嫌い……っ!」


 濁った声で唱える呪いはかの女に。そして、天つ乙女に。


 ぜったいに京姫になんかなるものか……!藤尾は強く地面を拳で叩き、自らの影がつくりだした暗がりのなかで悶えながら物思う。あのいとわしい京の姫になる?わたしから彼女を奪った京を守る?冗談じゃない。


 もうわたしからはなにひとつ奪わせやしない。胸になかに言葉がほとばしったそのとき、紫紺色の瞳は暗がりのなかで開かれた。そうよ、京に、天つ乙女に復讐してやるのよ――わたしはこの身を京から一番遠いところに投げ捨ててやる。


 よろめきながら立ち上がり、その身を引きずりようにして歩み始めた藤尾の背後で、銀の鋏は果樹のかたわらの土の上に捨て置かれてきらめいた。氷のように。水晶のように。



 藤尾、と誰かが呼んでいた。さきほど姦しくその身のまわりにつきまとって名を呼んだひとのなかには聞こえなかった声だった。その声に導かれてか、はたまた無意識下の意志によってか、藤尾は森を進んだ。冬といえども、常緑樹の葉は霜のように白く日の光を宿し、野辺に花は咲き、小鳥は冷気に一層冴えわたる声で囀っていた。だが、輝きにも生命にもあふれる世界に背を向けて、藤尾は突き進んだ。やがて知らぬ間に、藤尾は知らぬ泉のほとりへと出た。


『藤尾』


 と声はその時はっきりと形になった。藤尾はうつろな目をもたげ、水面を水面とも思わぬままに眺めやった。水面は風のそよぎひとつ受けるようすもなく、不気味なほどに凪ぎ、澄んでいた。


『ああ、藤尾、かわいそうに……』


 低い女の声と、藤尾は聞いた。


『お前も私と同じだ、藤尾よ。天つ乙女あの方によって傷つけられ、奪われた。藤尾、来なさい。お前の居場所はここ、そして私の居場所はお前。私はお前をずっと待っていたのだ。あの私のめぐ黄櫨王はぜのおおきみ、私の最初の御杖代みつえしろが失われてからずっと……お前こそ次の杖代に相応しい。目敏い天つ乙女あの方からお前の身を守ってやろう。お前に京を滅ぼすすべを授けよう。さあ、来なさい、藤尾』


(天満月媛さま……)


 月修院の巫女として仕えながらもいまだかつて人並み以上に尊んだことのない女神のみ声が、藤尾にはこの上なく慕わしく思われてならなかった。藤尾の頬をまたひとつ涙が伝い落ちた。


(この身は差し上げます。でも、わたしの魂だけはどうぞ手放して。わたしは彼女のもとに行きたいのです)


 約束の声を待たずに、藤尾は泉へと身を投げ込んだ。そして、それきり物を覚えなかった。




 …………否。




 深い眠りのうちに、ほんの一瞬、閉ざした瞼を光が透かした気がした。そのあとで、藤尾は夢を見た。懐かしい少女時代の夢である。たったひとりの愛しい人の手を引いて、春の果樹園を駆けた、この上なく幸福なおさない夢であった。



「はやくはやく!みんなに見つかったら大変だもの!」





 ……彼女は今も眠っている。しかし、その紫紺の瞳は煌々たる月の下にみひらかれ、並び合った薄い乳房が静かな息づきを透かしてかすかに揺れている。身じろぎに、こごった闇のような蜷腸みなわたのか黒き髪が端に流れるにつれてさやさやと柔らかく鳴り、それを予兆として、は振り向いた。


 の視線の先には崩れかけた部屋がある。鼠に踏み荒らされた床をぎしぎしと鳴らして何ものかが荒く息をしながら、窓辺に倚った女のもとへと歩んでくる気配である。女は嘲るような憐れむような笑いをそちらへ向けるともなく浮かべてみせたが、特別なにを言うでもなかった。


 ようやく月明かりの差し込むそのつまへと、褐色の素足が踏み込んだ。素足は忽ち太腿の影に覆われ、朽ちかけた床板に膝がくずれおちた。それでも女はただ見ているだけだった。


 最初に笑声をこぼしたのはしくも跪いた女の方であった。


「ふふ、どうです?こんなになっても帰ってきたましたよ。少しはあたしの誠意せーい、通じました、?」


 漆は口角で笑いを直した。


「そうだな、華陽。感心した。敗残の惨めな姿をさらすことも厭わぬとは。お前がそれほどまでに卑屈とは知らなかった。」

「手厳しいですねぇ。わざわざお土産を持ってきてさしあげたんですよ?人魚は手に入りませんでしたけど、帰る途中で神殺しをやってきたんです。感激でしょ?」

「弱った神の『信仰の力』はさほどの糧にならぬ」


 再び窓を向き直った裸身が照らされると、その肩の上に蜘蛛糸を張ったごとく傷跡が淡く残っているのが確かめられる。全身に隈なく巡らされたその傷は、星の命の長さよりも膨大な時を駆けてきた代償であり、前世の呪いである。かつて芙蓉もまた同じ呪いと代償を背負わされていた。芙蓉は下半身を失ったまま現世に甦った。白虎に切り薙がれた傷の癒えぬままに。


 芙蓉といえば……


(あの日、藤尾を泉から引き上げたのは芙蓉だった。芙蓉が藤尾を連れてきたとき、私にはひとめであの娘が神を宿していることを見抜いた。私には、この二条楷にはできなかったことだ。私には京への憎悪が足りなかったからだ。満月媛と共鳴するためには、憎悪こそ必要だったのに。


 その時、私はひらめいた。藤尾の身を私のれ物にすればよいのだと。いつか京の護りが破られる日がくる。その日、私は二条楷の身を捨て、藤尾の身に乗り移ればよいのだ。それを聞いた芙蓉は目を輝かせて藤尾の身に毒を飲ませ、その精神をずたずたに引き裂いてしまった。その方が管理しやすいからと、そう言って。まったく、なんと残酷な女だったことだろう。


 そしてその時、私は人ではなく神と人の間にある者として楷の名を捨てることをも思いついた。漆――黄櫨の神にふさわしき名前ではないか。


 この身の傷は確かに癒えつつある。もう間もなくだ。その時こそ、この身の力に宿りし黄櫨大神の力を、天満月媛の力を、私は自在に操ることができる……)


「あーあ、じゃあ今回も宝物は返してもらえないってことですね。もう、ほんっと…………イヤになっちゃうよ」


 華陽の甲高い声が磨き立てられたなめらかさと媚びを失っていくのを、漆は聞いた。深手を負わされたために変身するのも億劫になったと思われる。いくら殺生石が集まりつつあるとはいえ。かまわない。所詮、狐は狐だ。


「うーん、やっぱりこっちのカッコの方が落ち着くなあ。美人ってさあ、ケッコー疲れない?どう、漆さま?」

「お前はどんな姿でもかしましいな、篝火よ」


 蒲公英たんぽぽ色の水干すいかんに、尖った耳とふさふさの尻尾。少年は赤い瞳をきらめかせ、犬歯を見せてにやりと笑う。


「さーて、またゴホービもらうためがんばらなくっちゃ」


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