22-6 京姫

「姫さま、お気を確かに……!」


 たちまち微笑を失い、中空を仰ぐばかりになった京姫の瞳が、再び痛みのために曇りはじめた。朱雀の声ももう姫の耳には届かなかった。ほどなくして、お付きの者たちによって無理にその場から連れ去られる皇女の抵抗の叫びが響いたときも、やはり京姫はもう何も聞いていないのだった。



 朱雀の役割を引き継いだのは姫付きの女房であった。芳野と呼ばれているこの女性は幼い皇女よりもよほど手際よく、そして皇女にも劣らぬ深い情愛を持って、京姫のもっとも苦しい時のお世話をした。乳母めのとを職掌とする芦辺家の女だけあって、自身は初めてのお産をつい三月ほど前に経験したばかりであっても、芳野はこんな時にどうすればよいかをよく弁えていた。しかし、芳野とて想像もしていなかった。よもや京姫の子の乳母役を命じられるとは。


(純潔の姫巫女さまがなぜこのようなことに……京姫さまが身籠られて以来、京では不吉なことばかり起こる。これも全部お腹の子のせいだとして、子供を殺してしまうだなんていう恐ろしい案も出されたと聞くけれど、主上と左大臣が手を尽して守られたのだとか。ああ、かわいそうな子!でも大丈夫よ。早く生まれていらっしゃい。芳野が守ってあげますから)




 ……わたくしはどこにいるの?



 怖いわ。何も見えない。立っているのか寝転んでいるのか座っているのか、自分の体がわからない。わたくし、本当に体を持って存在しているの?



 それとも体を失ってしまったのかしら。だって、暗くて怖いけれども、先ほどまでの痛みもなくなってしまったのだもの。わたくしは死んだの?ここは死後の世界なの?



 もしそうだとしたら、なんて寂しいところなのかしら。満月媛さまはこんなところにおひとりでいらっしゃったというの?おかわいそうな満月媛さま……わたくしがお慰めして差し上げますわ。だから、どうか泣かないで。




 ……誰かが泣いている。



 あなたは誰なの?



 わたくしの知っているひと?



 ……………………



 ……ああ、わかったわ。泣いているのは貴女だったのね。



 泣きなさい。泣くといいわ。たくさんお泣きなさい。


 わたくし、貴女のことを憎いと思ったわ。何度殺してしまおうかと思ったわ。貴女と共にこの身もろとも……


 貴女はとてもとても罪深い。けれども、わたくしは貴女をゆるします。なぜって、わたくしはこう思うの。貴女はやはりあの日の罪が生ましめたのだと。あの月宮参りの日のわたくしの罪が。あの日、わたくしと藤尾が深く結ばれていなかったら、貴女は生まれてこなかった……それはつまり、貴女がわたくしと藤尾の子であるということでしょう?



 だから愛します、我が子よ。ごめんなさい。母は貴女を抱くことさえももうできない。貴女はわたくしの罪。わたくしの罰。そしてわたくしの宝物。



 どうか幸せになって――わたくしは、いつも貴女を見守って…………





 ああ、藤尾――わたくし、今あなたの元へ帰るわ。







 鋏は重みのままに、白い指から逃れて土の上に落ちる……

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