22-5 産褥

「姫さま……」


 額の汗を拭ってくれているのは朱雀だろうか。普段は不自然なほどに大人びて見える少女なのに、呼びかける声はいつになく心もとなさげである。血の穢れに触れるから早く桜陵殿を退去するようにと命じたのに、まだ残っていただなんて……そして、こんな幼い少女がそばにいることに、安堵している自分がいるだなんて。


 予期していた通りに押し寄せてきた痛みの波に呻くと、幼い手が額の布を放り出して、ぎゅっと姫の手を取った。汗か、涙か、その両方のせいで翡翠色の滲んだ瞳で、京姫は少女を見上げた。灯影に群れ立つ人々のなかに際立って浮かび上がるのは、燃え立つようなくれないの髪と瞳を持った麗しき皇女ひめみこ。物の怪避けにむんむんと香を焚いたこの部屋なのに、なんと青白い顔をしているのだろう。なんと苦しそうな顔をしているのだろう。まるで京姫の痛みを共に感じてくれているかのように。


(いいえ、この痛みはあなたには関係ないのよ。これは私の罪なのだから)


 ささやきにもならぬ言葉を胸のうちでつぶやいて、京姫は弱々しく微笑みかけた。


(そう、この痛みはきっと罰なのね……)


 暑いほどに火を焚いた桜陵殿の一間。それなのに、あの夜のことを思い出すと、どこからか忍び込んだ冬の寒気が手足を凍てつかせる。たとえたった今この身を襲う痛みが罰であったとしても、あの恐ろしい夜そのものが罰なのだと思うことは、京姫にはとても出来なかった――だって、藤尾を愛した、それだけのために、なぜかくも無道に、乱暴に、私は踏み躙られねばならなかったのか。それもよりによって心から尊敬していた男性かたに。



 ……ある雨の夜、まだ京姫が姫とも呼ばれ慣れていない夜に、帝は自らの罪を京姫に打ち明けたのだった。長年に渡って恋い焦がれ続けた女性――そのひとを想えばは涙に眩み、そのひとのためになら命をなげうつことさえもたやすく思われた女性、けれども父の后となってしまった女性のこと。その女性と結ばれた夢のような恐ろしい春の夜。そして二人の罪の証として生まれた類まれなる美しい皇子のこと。


 京姫は深い同情を以って聞いていた。主上おかみを責める心はなにひとつなかった。京姫が知らぬその女性に対して主上が抱かれた恋を、京姫はつぶさに知っていた。主上の告白のなかで、恋の相手は藤尾だった。主上は姫だった。姫は嫉妬さえ覚えた。姫もまた罪の証が得たいと思った。どうして私と藤尾のあいだには子が成せないのだろう。もし子を成せたのならば、京姫は藤尾と手を携えて、南の海の果てへでも逃げ続けただろうに。


 じっと帝の話に聴き入っているうちに、姫君の心はいつしか遠い森の方へと旅立っていった。ふと我に返った京姫は、姫の膝に顔をもたせかけて声なくしてお泣きになる帝のお姿を認めた。兄のように慕いはじめていたこのお方を、姫は不憫に思った。


 今は亡き女性の名を繰り返す帝の肩を、姫は長いこと抱いていた気がする。と、どこからか吹き込んできた風が部屋の灯りを吹き消した。人を呼ぼうと立ち上がりかけた京姫の体は、見知らぬ強い力によって、闇の底に横たえられた。


 おどろく姫が、まだ帝の真意を読み取れぬまま、当惑してみはる瞳のなかに、帝はご竜顔を映された。姫は声をあげかけた。帝の双眸はぎらぎらとかぐろい輝きを放ち、その表情から普段のお優しさはことごとく洗い流されていた。ひとつの感情が荒れ狂ったあとに残ったのはものすさまじい剥き出しの地であった。姫は逃げ出さねばならないことを悟ったが、その時すでに量の手首は帝のみ手にひしと掴まれていた。


「お離しください……っ!」

「姫、私はあなたを見たのだ」

「何を仰せになりますか」

「見たのだ。今年の月宮参りの日、私は確かにあなたを見た」


 咄嗟に顔を伏せた京姫は、当惑しつつ自身のただむきの影より再び帝のお顔をうかがった。


「見たとは……?」

「桜の樹の下にあなたがいた。あなたは裸身で、全くもって美しい裸身をさらして横たわっていた。私は桜乙女を目の前に見たのかと思った。美しかった。美しかった。私はあなたを欲しいと思った……」


 語りながら、帝は思い出のうちに恍惚の表情をお示しになられた。その声音は低く、歌うような抑揚さえ帯びられた。しかし、さればこそ、京姫はなおのこと恐ろしかった。あっ、と声なく応えた声は姫の胸の上についえて、真綿にしみわたる冷水のように、姫の身を侵した。その刹那、「罪」の一文字が姫の頭を掠めたのであった。


 帝は恍惚のあまりか目を細められたが、そのご様子がまるでこの身を品定めでもしているように思われて、京姫にはいよいよ恐ろしかった。だが、紡がれ続けるお言葉が姫を完全に捉えてしまっていた。


「私はあなたを手に入れられない代わりにたったひとつの喜びを得た。私の罪を贖う機会を……あなたにはこれが何かわかるだろう。だが、これはではない。これは木蓮の更衣のものだ。木蓮の更衣があの春の夜の形見に私にくれたものだ。木蓮の更衣亡き後、父宮はこの髪飾りをずっと探していらっしゃった。父宮もきっとあのひとを忍ぶ形見が欲しかったのだ。だが、私はどうしてもこの髪飾りを手放す気にはなれなかった」


 突き出された水晶の珠の表面が、闇を弾き返して濡れたようにつややかにきらめいている。確かにそれは藤尾との恋の形見ではないと、京姫は直感的に悟った。しかし、一体なぜ帝がこの水晶の髪飾りのことを知っているというのだろう?姫の蒼白な顔が、水晶の珠に囚われた霊魂のように、その一顆に宿ってゆらめいた。


「あの日、月宮参りの日、私はあなたの衣のそばに同じ髪飾りを見つけたのだ。私はせめてあなたの形見にと髪飾りを密かに持ち帰った」


 姫は声にならない叫びをあげた。気がつくと、姫は返してくれるようにと懇願しながら、帝の胸に縋りついていた。帝は格別それを振り払おうとするでもなく、異様なほど落ち着き払って、ゆっくりとかぶりを振られていた。


「もう私の手元にはない。私が父宮に差し上げてしまったから」

「主上、あなたは更衣の形見を手放したくないばかりに、私の髪飾りを更衣のものと偽られて上皇さまに献上なさったのですね?」


 京姫は涙を滲ませて、鋭く言った。


「なんてむごいことをなさるのです……!」


 ああ、藤尾との思い出はこれで永遠に失われてしまったのだ――!姫は袖で顔を

覆った。一度この手を離れたとしてもあの二人の庭で永久に煌めいてくれているものと思っていたのに。寧ろそうであると信じることが姫の希望でさえあったのに。まるで二人の恋そのものであるかのように、誰にも知られることなく、水晶は深い緑のなかで煌めき続けるだろう。朝露に紛れ、夜露に紛れ。そして、ある時、そう、きっと七年後の、水晶は忽然と再び姿を現すのだ。二人が永久とこしえに結ばれる、その日。そう信じていたのに……!


 帝のお手が歔欷に震える背に触れるのを、姫は感じた。


「姫よ、私を許しなさい。あれは私の贖罪のために必要であったのだ」

「そんな贖罪があるでしょうか……我が身を痛めつけない贖罪など……」

「あなたと私はひとつではないか。私はこの国で最も尊い妹背。あなたの痛みは私の痛みだ」


 春の嵐の遠雷が、立ち並んだ京の甍を伝わって聞こえてきていた。


「いいえ、わたくしの苦しみを、主上はご存知ではありません……!」


 せなから肩へ、ずり落ちてきて姫を振り向かせようとするお手に、京姫は懸命に抗っていた。だが、姫は礼儀と尊敬とにけた。これだけの痛みを与えられても、姫はまだこの高貴なお方を尊んでいた。それは生まれた家で、あの乳母めのとが毎晩姫に説いてきかせてよくよくその身に沁み込ませた感情であった――決して決して主上に逆らってはなりません。そして、その「主上」が段々と「乳母」へと変わっていったのだ。


 それでも、振り仰いだ瞳には姫自身の悲しみと憤りが星のような光を点じた。恋だけは乳母が教え込まなかったものだったから。だが、刹那、星は闇の奥へと押し込まれた。


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