22-4 新月

「芙蓉、なぜこの地に月修院が置かれたか知っていますか?」


 いいえ、と女は答える。すでに三日間にわたって不眠の業を行っている月修院さまのお言葉は澱むことなく、その変わらぬ明晰さは、横顔にじっと寄せられている芙蓉の瞳のほの暗い熱をも受け付けぬ。新月に垂れたこうべの剃り目も真新しく、実にすがすがしいお姿なのであった。灰色の目を開かれるさまは、まさしくちょうどその時にあたって、内奥の深淵のなかでなにか悟りを得られたかのように見えた。紫紺色の僧衣の立ち姿は、闇に一本の樹がゆるやかにそびえたかのようだった。


「教えてあげましょう、芙蓉。さあ、いらっしゃい」


 供の者もなく、月修院さまは自ら灯りをとって芙蓉を先導した――去年こぞの秋に月修院へと送られてきたこの娘は、その聡明さで早くも周囲の人々に舌を巻かせていた。しかし、本当の意味で芙蓉の才に気がついたのは月修院さまただお一人だけだったと言えよう。月修院さまが他の巫女と話すときの鋭い目つきを見咎めたのは。ある夜、月修院さまは娘に講義をした。蕨の宮によってそのはらに注ぎこまれた毒のなんたるかを。次にふみに伝えられるかぎりの毒を。その調合法を。


「芙蓉、あなたには以前話しましたね。『暁星記』に記された神話の意味するところを」


 月修院さまは灯籠の灯に照らされた半身を森の奥へと向けたまま語られた。


「はい。月修院さまはあれは虚構だと」

「正しくは多くの歪曲や誇張が含まれていると言ったのですよ。帝がこの国を治めるためにはその正統性を説かねばなりません。しかし、まるきりの虚構というわけでもないと私は考えます。確かめる術はありませんが」


 降り積もる葉を踏む音は自分が立てているとわかっていても、闇のなかでは、足元をなにか知らない生き物が這いまわっているかのように思われる。芙蓉はいつになく不安になっている自分を叱った。こんなことで怯えてどうするというの。わたくしは決めたのでしょう。月修院さまの右腕となるのだと。


「芙蓉、あなたは黄櫨はぜの一族の叛乱の話を覚えていますね。黄櫨の一族はまがつ神を祀り、白梅帝に背いたため、稲城乙女と四神たちによって鎮圧されたといわれています。さて、その禍つ神とはいかなる神であったのでしょうか。芙蓉、私はこう考えています。この禍つ神とは私たちの女神だったのだと」

「満月媛さまが……?」

開闢かいびゃくの時、水底から浮かび上がった日と月を見て、天つ乙女は『なんと眩しいのだろう』と呟いたといいます。この言葉が満月媛さまをいたく傷つけました。以来、月は夜のみを照らすようになり、満月媛さまは我が身を恥じて隠れてしまわれたといいます。今宵こそまさにその夜」


 急な羽音に驚いて頭上を仰いだ芙蓉の目に、わずらわしいほどの銀の星々がまたたいた。


「この国ははじめから呪われているのですよ、芙蓉。満月媛さまの羞恥と悲しみによって……黄櫨の一族は白菊帝によって征服されるより前にこの地に暮らしていたのでしょう。荒ぶる神々に怯えながらも、つましく、たくましく暮らしていたはずです。白菊帝が従属を強いたその時、彼らは誇り高くもまつろわぬ民となる道を選びました。そして、土地を追われるうちにこの北山の麓へとやってきたのです。そこで彼らは見つけました」


 いつの間にか、芙蓉は泉のほとりへとうち出でていた。そうと知れたのは、水面に月修院さまの持つ灯りが揺らいだためである。こちらを顧みられる月修院さまの肩越しに、芙蓉は闇に慣れた目で泉の全貌を見渡した。ここではかわずの声ひとつ聞こえず、急な灯りに怯えた魚が尾鰭で水を蹴る気配もなかった。思いがけず広がる水面は穴の開いたように深い暗黒に沈みきり、対岸に生える水辺の草がほの白んで見えるほどであった。星の鏡となることをも、泉は拒んでいた。


「この泉の底に。この泉こそ、この目で確かめられる最後の神代かみよ名残なごり、天つ乙女が流したといわれる涙の川のひとしずく。新月の夜、満月媛さまはこの水底に姿を隠していらっしゃったのです。そのお姿を見つけ出した黄櫨の一族は満月媛さまの羞恥と悲しみを讃え、やがてはそれを天つ姫に対する呪いと憎しみに変えてしまった。かくして夜空には深紅の月が燃え立ち、叛乱のとぶひとなりました」

「……満月媛さまはここにいらっしゃるのですね」


 芙蓉が震える声でささやくように言った。月修院さまを仰ぐ瞳が危ういほどの輝きを放っていた。


「今のお話で芙蓉は全てわかりました、月修院さま。京姫と四神たちは再びここに満月媛さまの荒魂あらみたまを封じたのですね。だからこそ、月修院はこの地に……」


 月修院さまは莞爾とされた。


「その通りです。満月媛さまの依代よりしろとなった黄櫨のおおきみとともに……ねぇ芙蓉、私の望みを聞いてくれますか」


 その時、月修院さまはおもむろに芙蓉の方へと歩み寄られて、芙蓉の頬に手を当てられた。芙蓉の頬の赤らむのは、闇のうちでも明らかだった。


「……悦んで」

「私は自分の才を試してみたいのです。幼いころから私は誰に目をかけられるでもなく見捨てられるように月修院ここへと送られました。しかし、私は自らが父や兄たちも及ばないほどの才を持っていることを知っていました。あらゆる欲を捨て去った私です。ですがたったひとつ、己の才の限界を見たいという欲だけは捨てられませんでした。私はこの才を用いて宗主になりました。私はこの国さえも動かせる。俗世と離れながらにしてまつりごとを操り、民の心を移ろわせることさえもはや容易たやすいこと。けれども……いいえ、まだ物足りないのですよ」


 月修院さまの灰色の瞳の動きに倣って、芙蓉もまた泉を見遣った。


「……私ならば、この世を創り変えることさえできる」

「ああ、月修院さま!!」


 芙蓉は叫び跪いて、僧衣の膝を抱きしめた。


「そのためにはこの泉に眠る天満月媛さまの力をよみがえらせなくては。その方法を探しましょう、芙蓉。私は何年も探ってきました。時は近いはずです。私たちは終焉を、そして終焉の更なる果てへと向かうのです」


 月修院さまの灰色の瞳は、その時はじめて光を失った。光を失ってもなお、その奥から怜悧に、冷ややかに、世界を射抜く目であった。その瞳に映されて、泉はなおも深い闇のなかに沈んでいる。

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