22-3 約束

 八重藤が新たな京姫に立ったことは、あくる日になって月修院さまから皆に伝えられた。ごく若い人たちのうちにはどよめきが起こったものの、月修院のひとびとは月の女神に仕える者らしく慎ましい態度を守り抜いた。その日の祈りの時間、人々はいっそうこまやかに心を砕いて月の女神のお心をお慰め申し上げた。


 八重藤の出立は七日後とのことであったが、その間、言葉を交わすことはおろか、一目見ることさえもかなわなかった。神乗かむのりから醒めて、すでに健康を取り戻した八重藤は、本堂にこもって(月修院さまは新たにお立ちになった京姫のために本堂を明け渡されたのだった)厳重な物忌みの日々を送っていたのだ。あらゆる欲を絶ち、あらゆる快さを離れ、肉体の苦しみにただひたすらに耐えながら、八重藤は神秘の繭に閉じ込められ、美しくも儚いなにかへの変貌を強いられていた。さながらかいこのように。やがて繭を破って生まれ出るとき、八重藤はもう飛び立てず、ものを口にすることもできない。


 放心していても誰にも咎められることはない。孤独な娘を憐れむ人々の優しさに気づいても、藤尾は格別それをありがたいともわずらわしいとも思わなかった。なぜなら、藤尾にとって八重藤との別離など決してありえなかったからである。藤尾はその皮膚で変質していくものを感じ取りながら、心の底では最後の瞬間にその変質の一切がなかったことになってしまう、そんな奇蹟を信じていたのだ。否、藤尾にとってそれは奇蹟でさえもなかった。それは、ありえないことはありえないというただそれだけのことだったのだから。




「どうしてお別れを言いにきてくれないの?」


 出立するその前の晩に、八重藤の声が尋ねた。襖に身をもたせかけていた藤尾はその声を背後に聞いた。


「……ほんとうにお別れするつもりなの?」

「そうするより他にすべがあって?」


 やわらかな掌が襖をそっと撫ぜる音に、藤尾は目を細めた。八重藤の掌が直接藤尾の背に触れているかのように。細めた目の端に、部屋の隅にたったひとつ灯されたあかりがにじみ、部屋に流れ込んだ深更の闇が一瞬遠のいた。潭月寮中の巫女たちの寝汗と寝息とに煮立てられ、晩夏の月に冷やされて、闇は樹液のごとく濃密であった。この闇はこれまでも夜どおし二人を包み守ってくれていた。


 藤尾はふっと笑った。


「おかしいわ、わたしたち、互いに質問ばかりして。どうしたのよ?わたしたちが離れられるはずないじゃない……逃げましょう、八重藤!誰の手も届かないところへ。帝も、天つ姫さえも……!」

「いったいどこへ行くというの?この国はあまね有明星命ありあけぼしのみことらす土地。天つ姫のみ手は月修院ここにすら及んだのよ。どこに逃げ場所があって?」

「そんなの知らないわ。でも、どこかあるはずよ!どこか……どこでも…………ねぇ、だって、行かなくちゃ!八重藤、ほんとうにこのまま離れ離れになるつもりなの?」


 襖に隔てられた向こうには沈黙が渦巻いている。


「怖いの、八重藤?大丈夫よ。わたしが守ってあげる。誰も八重藤を傷つけたりしないわ」

「そうではないわ。そうでないのよ、藤尾……」

「なにがそうでないのよ?!八重藤、変よ……どうしてわたしを信じてくれないの?わたしなんか、もうどうでもいいというの?それとも月修院ここでの暮らしに飽き飽きした?京で暮らしたい?……そうね、そうよね、八重藤みたいな高貴な生まれのひとはきっとそうなのよね。京の暮らしの方が華やかでずっと楽しいもの。なんてったって京姫さまですものね。路地を這いずり回って残飯を漁らなくてもいいんだし。ねぇ、黙っていないではっきり言ってよ。わたしのことなど愛していないんでしょう……っ?!」


 次第に自身の言葉に興奮してきた藤尾はそのうち身を翻し、襖に縋りつきながらまくしたてていた。もう声が誰に聞こえようと構いやしない。たとえこのことによって二人の関係が露見してしまったとしてもよかった。もし八重藤の心が自分から離れているのだとしたら却ってそのほうがよい。八重藤を道連れにできるのだから。しかし、そう思いつつも藤尾は今もなお強く八重藤の愛を微塵も疑っていなかった――ありえないことはありえない。


 襖が開かれた。藤尾は額に月の光を浴びるとともに、やわらかな熱の堆積を胸に受けて、背中から倒れ込んだ。見上げた翡翠の瞳は憤りに燃え、悲しみに燃え、苦しみに燃え、愛に燃え、情欲に燃えていた。月光を背後から受けながらも涙のために峻烈に藤尾を射たその瞳のきらめきは、襖を閉ざすすばやくも周到な所作によって隠された。そして部屋の灯りさえもが掻き消えたあとに、なおもその部屋に燃え残っていたのは、はたして…………



……………………



「だいきらい……!」


 八重藤の乳房の影に顔を埋めてすすり泣きながら、藤尾は八重藤の二の腕に爪を立てていた。せめてそうすることによって信じてもほしくない言葉に真実味を持たせたかったのかもしれない。


「ほんとうにだいきらい。これだけ愛しておきながら、どうしてわたしのそばを離れていこうとするのよ……!」


 八重藤は藤尾の額のあたりへと瞳を伏せた。何ひとつ答えずとも、この肌、この密事、京姫たるこの身のただひとつの汚点となるであろう喜悦を通して、藤尾には十分に伝えたはずだった。たとえそれがどれほど心に抗うとしても、呼び寄せようとする強い力に従わなければならない時があるのだと、八重藤は悟ったのである。まして八重藤は神がこの身を差招くその姿をありありと見たのであった。


「わたくしは、わたくしのつとめを果たさなくては……」


(もし、貴女が南へ行こうと言ってくれたら……)


 高熱にうなされながら、八重藤は代々の京姫が受け継いできた神代かみよの記憶の中にいた。時に八重藤は桜乙女であった。『暁星記』に記された神話と古き記憶は違っていて、天つ乙女はなによりもはじめに桜乙女を見初めたのであった。やがて乙女の名を聞きつけたうるわしい若者が訪ねてくるのを八重藤は見た。若者は言った。この地に跋扈ばっこする荒ぶる神々を鎮め人の世をもたらすために、八重藤の力を貸してほしいと。八重藤が拒むのは容易であった。しかし、秀でた眉とみひらかれた黒い瞳に、八重藤は、なにか不自然なほどすこやかに幼稚なものと貴いものの同居を見た。その時、天つ乙女が八重藤にささやいたのは、玉藻の国が統べられるというその一事であった。若者と八重藤の手を以ってして。


 時に八重藤は稲城乙女であった。偉大な姉を持つこの赤髪の娘は、頑なに帝の妻となることを拒んだ姉に代わり后となることが、幼くして約束されていた。しかし、稲城乙女は何も知らぬまま、ゆたかな自然に囲まれて無垢なる少女時代を送った。四神たちは稲城乙女のよき忠臣であり、よき友人でもあった。八重藤はしばしばせがんだ。雲の上へ、水底へ、荒野の果てへ、森の最奥へと自分を連れていってくれるように、と。そんな時、四神たちは少女の姉に叱られることを恐れていつも困り切ったようすを見せるのであったが、朱雀は時おり少女のわがままをはぐらかすためこんな話をした――私の生まれ故郷である南の果てには海というものがある。その海を越えた者はいまだかつて誰もいない。だが、姫さまがいつか大人になったら連れていってさしあげよう、と。


(もし、貴女が海へ行こうと言ってくれたら、わたくしは貴女とともに逃げたかもしれないわ。でも、こんなわたくしを突き動かしているのは、わたくしのものですらない、太古の記憶なのね。これほどまでに藤尾を愛しているというのに。ああ、わたくしはもうわたくしひとりの心だけは生きられなくなってしまった――それはきっと悲しいことだわ)


 唇に触れる温度が、触れられる前から目に見えるようになったのは、明らかに長居をしすぎた証であった。闇に浸されていたはずの二人の裸身は今や月光の色にこごり、二人は何とかしてそのきららかな身を隠そうと努めるのであったが、互いの影に埋もれようとする目論見もくろみ自身はすぐさま忘れ去られ、ただ、触れ合い、ねぶり合うという過程ばかりがいつまでも繰り返されるのであった。それを自覚したとき、ついに八重藤は諦めを知った。藤尾の華奢な腰を長い髪にもつれる腕でいっそう強く抱きしめ、鎖骨のあたりから薫り立つ汗のにおいを深く吸い込んだ。


「……七年後よ」


 息をついたあとで、八重藤は長い髪に含ませるようにして藤尾の耳元にささやいた。


「月宮参りの時にまた会えるわ。その時にはね、藤尾、わたくしをあの桜の樹の下へ連れていって。そうしたら……」




 そうしたらね、わたくし、もう二度と貴女のそばを離れないと誓うわ――




 八重藤は発った。盛大に行われた神饗祭かむあえまつりの評判と前後して、京で広まっているという不吉な童謡わざうたが野分とともに伝わってきた。


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