22-2 熱

 ……山は群がる雲の影を帯びて涼しげに蒼褪めている。山を遠景に燦然と燃え立つ果樹園を見渡す藤尾は、額の汗を拭いつつ、ふと、自分がかつてどれほどこの季節が嫌いだったかを思い出した。京の夏は本当に嫌な季節だった。暑熱から逃れて半ば壊れかけた廃屋の軒下に逃げ込むと、そこは昨日の夕立の痕を留めてじとじとと湿っぽく、蚊や蠅や名前を知らない羽虫たちがわんわんとうるさいほどにたかってくる。素足やはぎにまとわりつくぬるい泥濘は疫病の源たる汚毒を思わせた。実際、京の夏にはよく病が流行ったものだった。暑さと、渇きと、飢えと、そして病とに追い立てられて、どこにも行き場のない子供たちは次々と命を落としていった。ああ、あの夏!あのけがわらしい夏!いとわしき京!!


 それに比べて、月の女神に守られたこの地にはなんと清らかな風が吹き渡り、あざやかな緑に紛れて、なんとすこやかな果実が、花が、こぼれていることであろう。それにこの手にはたった今、月当に切り分けていただいたばかりの水瓜みずうりを載せた器が一つ――八重藤ったら、まだ働いているのかしら。夏なのだもの。暁鳥たちだって、せわしなく地面をつつくのをやめて、木蔭で休んでいるというのに。


 八重藤の名を呼んでみる。返事はない。金色こんじきの葉をつけた果樹を風がそよがせる、そのひとつひとつのかぎりなく繊細な、たまらなく壮大な自然の所作には、なにか藤尾を不安にさせるものがあった。きっとそこには神があった。葉のそよぎ、そのひとつひとつの枝先や葉の影のさざめきにも神は宿り、しかし、神の意志はこの目には収まらぬほどの壮大な景色を成すところにあるのだ。今の藤尾の目には、八重藤を焼き尽くす金色の炎が見えた。


「八重藤……?」


 なにかが果樹の森のなかで動いた気がした。小鳥が枝から落ちるような、ほんの些細な、けれども決定的な動きであった。藤尾は床の上に器を置き去って、裸足のまま森へと駆けた。


 はたして八重藤はすももの樹の下に臥せっていた。抱き起こした藤尾は、こまごまと知り尽くしている身体が、藤色の衣越しに熱を伝えてくるのに驚いた。尋常の熱ではなかった。何度名を呼んでも帰ってくるのは荒い吐息ばかりで、白い皮膚にかじりついた夥しい汗の玉が、胸の上下するのに合わせて震えていた。八重藤は暑熱の悪夢に囚われてしまったようだった。


「八重藤……!」


 半泣きになりながら藤尾が救いを求めると、すぐに年配の巫女たちが駆けつけてきて、八重藤を運んでくれた。当初、皆は暑さのせいであろうと言いあった。真面目な八重藤のことだから、この日差しの下で無理をしたのだと。しかし、藤尾の熱は高くなるばかりで意識は一向に戻らなかった。熱のせいで乾いた唇が時おりなにごとかをつぶやいていた。けれども、藤尾がそれを聴きとろうとして耳を近づけると、言葉の意味はたちまち干からびてしまうのだ。


 藤尾は二日二晩八重藤に付き添った。その間、医術の心得のある巫女たちが入れ代わり立ち代わり八重藤を診たが、誰一人として病のなんたるかをつきとめられるものはいなかった。三日目になって、八重藤の身は潭月寮から運ばれることとなった。月修院さまがじきじきに診てくださるというのである。


 藤尾はもう付き添いを許されなかった。日々のつとめに戻るようにと月当に申し渡された藤尾はただ日常の真似事をし続けた。眠りのなかにも、食事のなかにも、労働のなかにも心はなく、ただ祈りの時間にだけ藤尾はやっと目が覚めたように感じるのだった。その時間だけは、身も心も藤尾を想うことを許されていたのだから。


(満月媛さま、お願いします……八重藤を連れていかないで。連れていくならどうかわたしを……!)


 京から月修院に使者が送られてきたという噂を藤尾も確かに聞いたはずなのに、藤尾はまるで忘れていた。八重藤が倒れて十日経ったある朝、藤尾は突如として月修院さまに呼び出された。月修院さまのお話は、京から使者が来たのだというその一事より繙かれた。


「それより八重藤はどうなったんですか……っ?!」


 藤尾はもう無礼もかまわなかった。清月寮せいげつりょうの最北の部屋、朝のうちはまだ薄暗いその部屋の奥にまします月修院さまの方へと、許されるかぎり身を乗り出し、藤尾は頬のこけた青ざめた顔で迫った。月修院さまはゆるやかにみを伸べられて藤尾を制した。


「この話はまさに八重藤に関係するのですよ、藤尾。あなたの八重藤への愛は存じています。落ち着いて聞いてください」


 嘘よ、と藤尾はつぶやいた。わたしの八重藤の愛を知っているなんて、いくら月修院さまでも知るはずがない。わたしがどんなに強く八重藤を愛しているか。こうして焦らされることだってたまらないぐらいに……!滲んできた悔し涙を藤尾はそのままに、月修院さまから目を逸らした。月修院さまは微笑まれた。


「藤尾、京からの使いはなぜ月修院ここへ来たと思いますか。ひとつは訃報を伝えにきたのです。京姫さまが亡くなったのです」


 だからなんだというの?京姫よりも八重藤の方がずっとずっと大事じゃないの。


「もうひとつ。使いはこう言うのですよ。新たな京姫がこの月修院から生まれ出る、そのようなしるしが出ていると。そしてね、藤尾、ついに昨晩新たな京姫が見出されたのです。もうおわかりでしょう?――そうです、八重藤なのですよ」


 藤尾はじっと息をとめて、月修院さまのお顔を眺めた。


「昨夜、八重藤が次の京姫であることが確かになりました。京姫のしるし(傍点)が認められたのです。八重藤はこの月修院を離れ、京へ行かねばなりません」

「……嘘」

「いいえ、嘘ではありませんよ」


 月修院さまはひとりごとのような藤尾のつぶやきでさえも、真摯に受け止められたようだった。


「かような嘘をつくなどあまりに畏れ多いことです。藤尾、私は誰よりも先にあなたにお話ししたいと思いました。あなたには誰よりも長い時間が必要となるでしょうから。藤尾、八重藤とあなたはお別れをしなければなりません」


 そのあとで自分が何を言ったのか、思い出しても藤尾にはわからなかった。ありえない、と口走った気がする。黙ったままの月修院さまに、どんなにこの現実がありえないものであるかを必死に語った気がする――月の女神に仕える身分である八重藤がどうして天つ乙女のものになるのか、そんなことは過去に一度もなかったではないか。わたしと八重藤が離れ離れになって生きているはずがない。絶対に行かせない。京へ行くというならわたしも行く。誰もわたしたちを引き離せやしないはずだ。


 ……どんなことを言ったにせよ、月修院さまはただいたわるような目を藤尾に向けられるだけだった。気がつけば、藤尾はとこに横たえられていた。天井を白く照らし出す真夏の明るさに慄いて、しばたいた目から涙が伝い落ちた。

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