21-3 巫女と人魚


 もっと深く、深く。誰の手も届かないほど深く――――



「せっかくだから、馴れ初めとか話してくれてもいいんですよー?」


 華陽が軽薄にしゃべり続けるなかで、老尼はじっと沈黙を守っていた。邪なるものに口を開くのは自ら死すのと同じことであるから。もはや死など、おのれひとりの命などどうなってもかまわない。この世界で最も尊いものを犠牲にした今となっては。それでも――否、だからこそ、人魚の巫女は黙し続けるのだ。ほどなくしてこの手から失われるものとの大切な記憶を守るべく。


「もう、つれないですねぇー」


 華陽はそう言いながら機嫌よく笑っている。この異形の女は老尼が崖の上のあやうい足場を辿るのを見下ろしながら、宝石で飾り立てた素足と白い尾を宙に揺らしていた。すさまじい風が吹きつけるたびに、さすがの老尼の足元もよろめいたが、華陽は妖しい力で以って強風から身を守っているらしかった。よろめくたびに、華陽は冷やかしたり、囃し立てたりした。


(翼、こんな時に貴方が助けにきてくれれば……)


 藍色の髪の凛々しい少女のことを想う。打ちひしがれてもなお澄み渡った瞳をした少女のことを。もし、自分が彼女を正しく導けていれば、このような惨劇は起こらなかったのだろうか。済んだことを悔やんでもとはいえど、華陽によって無残に散らされた島民たちの命を思うと、老尼は深く悔やまずにはいられなかった。


 老体には次第に寒さも堪えてくる。苦しげに息を吐きながら海の轟きを遠く聞くとき、華陽はまたもや老女を冷やかした。


「大丈夫ですかあ、おばあちゃん?気をつけてくださいね。このあたり、事故が多いんですって」


 ……ああ、なんとやかましい蠅だろう。


「さっきも女の子がひとりここから落ちたんですよ。好きな人にフラれた幻覚を見たんですって。かわいそうに」


 岩壁に手を充ててうつ伏せていた旭さまはさっと顔を上げられた。瞳はまっすぐに華陽を射抜いていたが、その顔面は蒼白であった。


「まさか……」

「おや、気になりますかぁ?でも、大丈夫ですよっ!この島の女の子じゃありませんから」


 震えが痩せた肩にのぼってきて、旭さまは妖狐から急いで顔を背けられた。しかし、一体どうやって?家の周りには結界を張っておいた。それさえも破ってこの女は翼をたらしこんだというのか――ああ、翼!私が呼んだばかりに!


 もう決して許してはおけなかった。この女とは刺し違えなければならないと、旭は悟った。




 片鰭岳から崖を下り、傍目には荒磯とばかり見える岩場を命からがら渡った先に、島の女性しか立ち入りを許されぬ浜がある。それはそそりたつ崖下にわずかに堆積した砂であり、人二人並んで歩くこともままならぬ。この浜には、島の女たちでさえ、八年に一度の祭りのときにしか足を踏み入れず、浜の場所も男たちに、ましてや島外の者には決して漏らさぬように日々互いに戒め合っている。かつて島を訪れた民俗学者にこの浜の場所を語ってしまったという主婦は、ひと月も経たぬうちに家族もろとも島を出ることになってしまったというほどである。


 崖に沿って細長く伸びるこの浜をさらに進んだ先に、海原に入り口をひろげる海蝕洞があることは、島の女たちでさえ知らない。女たちは浜の半ばで道を引き返すためである。人魚と会うためには浜につながれた小舟のともづなを解き、暗闇も荒波をも恐れずに、洞窟のうちに漕ぎ進まなければならぬことを知っているのは、巫女ひとりだけであった。


 浜から洞窟までのわずかな間でさえ引っ繰り返りかねない古い小舟であったが、旭は巧みに櫂を操った。洞窟のなかは、まことにここが海面の上かと疑われるほどに静まり返っていた。鏡面のごとく波は凪ぎ、楷の軋む音だけが厳かに響く。岩壁は暗く、ただ波に濡れたところばかりがつややかだった。華陽は小舟を厭って宙を浮遊したまま旭の周囲についてまわっていたが、闇のなかで赤い目をかがやかせては興味深げに辺りを見回しているようすだった。軽口をたたくことも忘れているようだ。



 ……この場所を知ったのは、まだ旭が十六の娘であったころだ。旭は海原島で生まれ育ち、文字もみやびも知らねども、海底にかづき日々の糧を得ることに関しては長けていた。旭は海女あまであったのだ。日灼ひやけして赤茶けた髪と、琥珀の肌と、島の男たちに恐れられるほどの強い瞳を持った寡黙な娘だった。


 ある時、この娘はどうしたことか風を見誤った。そしてこの海蝕洞へと押し流され、好奇心のままに舟を漕ぎ進めていった。そこで人魚と出会ったのだ。


 網に囲われ、ところどころ傷ついた生き物は、人間の娘の姿を認めるなり水中より顔を出し、救いを求めた。その言葉は海神の国の言葉であり、到底人間の娘の知り得るものではなかったのだが。それは海女のする磯笛の音色とよく似た言語であった。


 なるほど、島のみんなが騒いでいた人魚というのがこれであったのか。なんでも然るべきお方に献上するのだとか父親が話していた気がするのだが。それにしても今まで聞かされてきた人魚と実物の人魚はなんたる違いであろうか……旭は恍惚として長いこと舟の上より人魚を見下ろしていたが、その間も、人魚は必死にこの海女の娘に語りかけていた。人魚の尾鰭は海面の上に幾度も跳ねてせわしなく音を立て、網に押しつけられた皮膚は裂けて血が滲み出た。そこには幼い子供が言いたいことが伝わらないもどかしさにむずかる時のような、あどけない切実があった。


 ようよう我に返った旭は、なすべきことを悟った。旭が舟を漕ぎ寄せると、人魚は怯えて水中に隠れてしまったが、旭は構わず水のなかに飛び込んだ。


 朝の陽ざしが海蝕洞の入り口より帯状に差して、海中を蒼く照らし出していた。生き物の気配はない。ここは聖域なのだ。手際よく小刀を操りながら、澄んだ水の音を耳元に聞き、ぬるんだ身が海の冷たさに清められていくのを感じるとき、旭の胸にはいつも同じ思いが湧きあがる――もっと深く、深く。誰の手も届かないほど深く――――


 水のなかのきらめきが瞼を刺した。驚いた旭が見やった先に、水底にあっていっそうかぐわしき女体があった。深い感謝にみたされた蒼玉のまなざしがあった。


 水泡みなわの向こうで、人魚はほほえんでいた。藻屑のように千切れ漂う網を掻き分けた人魚の手が、戸惑うひまさえも与えずに旭の両手を取ると、ふしぎな冷たさがじんと皮膚に染み入った。その見知らぬ冷たさに酔いしれているうちに、旭は唇を奪われた。


 その接吻によって、旭は海のなかで呼吸をすることをおぼえた。ほんのわずかなひとときでこそあれど。人魚は旭と手と結び、解き放たれた悦びをこの海女の乙女と分け合った。自由に海の世界に遊ぶ悦びを。




「辛気臭いところですねー。それで人魚はどこにいるんです?」


 ものめずらしさもすでに薄れてきたのらしい。華陽が足先で僧衣の肩をつついて言った。


「……まもなくやって来られます」

「まもなく、ってほんとうでしょうね?あたし、待たされるのきらいなんですよ」


 大きなあくびをして、華陽は目に見えぬベッドでもあるかのように宙に横たわってみせる。やわらかな狐の尾が垂れて、旭の目の前をゆたりゆたりと揺れている。その尾の先を見極めてから、旭は顔を背けた。


「して、人魚さまをどうするつもりなのです」

「まっ、いろいろと?人魚の身は余すところなく使えるってご存知でした?人魚はね、生きたまま解体バラさなきゃいけないんですよ。これがなかなかめんどーでめんどーで……」


 不快な語りにも旭は動じなかった。うつ伏せに身を返した華陽の片目が上から面白そうにこちらに注がれているのに気づいていたから。


「まっ、でもそれだけの価値はあるわけですよねぇ。だからこそ大昔には人魚狩りっていうのが流行ったんですから。肉は食べられますし、髪を織り込めば決して破れず燃えずのすてきな服ができあがります。眼球はアクセサリーになりますし、皮膚はランプのシェードに使えば水中でも使える優れもの。鱗や鰓はある界隈では通貨として使えるんですよ。血にも解毒作用がありますし、あっ、そうそう、あと心臓は……」

「もう結構」


 旭は合わせた手に数珠をかけつつ、諭すように静かに言った。


「ごまかされるのは至極不快。が目的ならば、他の人魚を探せばよいでしょう。なに故私たちの人魚さまにこだわる?」

「ふふ、いい質問ですねぇ。認めてもいいですよ。人魚の肉体なんかに、ほんとはこれっぽちも用はないってね。あるなら頂いていきますが……あたしが欲しいのはね、人魚さまへの『信仰』ですよ」


 信仰、と訊き返す旭に、華陽は不敵な微笑みを浮かべつつうなずいた。


「『信仰』の力ってすごいじゃないですか?だって、本当はありもしないものに命を与えるかと思えば、逆も然り。どんなに偉大な神でさえ、一度信仰を失えば、風に吹かれるままにゆらゆらとさまようだけ。だから、あたしは、八百年の間、人魚が集めてきた『信仰』が欲しいんです」

「しかし、かようなものを奪って何になるのです?お前には『信仰』などというものは有り余っているでしょう。否、信仰と呼ぶべきではない。畏怖でもない。『恐怖』というべきか。お前はかつて三国の民より『恐怖』を搾り取ったであろう?」


 旭の目が細くなった。


「……白面金毛九尾はくめんこんもうきゅうびの狐」

「……その名で呼ばれるのは久しぶりですよ」


 華陽は笑みこそ崩さなかったが、旭は瑪瑙のような華陽の瞳の奥に燃え立つものを見た。表面上は美しい女のまま、しかし、そのなかでは獣が赤い舌をさらして舌なめずりをしているのだ。その口腔は臓物を喰い飽きて血にまみれ、骨を砕き飽きた牙だけが白く閃いている……


 と、聡い獣の耳がぴくりと動き、華陽は獲物の気配を嗅ぎつけたようにさっと顔を上げて身を起こした。それはほんの一瞬の幻影ではあったが、旭は華陽の口が耳まで裂け、眦が眉まで吊り上がるのを見た気がした。だが、もはやそんな些事に構っていられる猶予はない。この女の正体はすでにくずの葉よりも明らかなのだから。


「どうやらお出ましのようですねぇ」


 耳を澄ませてみる。尾鰭で幾重の波を掻き分けてこの洞窟へと近づいてくるものの気配が、確かにする。けれども……なぜだろう。人魚以外にあり得ないのに、どこかがいつもの人魚とはちがっている気がする。その泳ぎは、共に手を取り合って海の底にかづいたあの遠い日々の悠然とした泳ぎではない。別のなにか?それとも、もはや失われてしまったというのか――この八年の歳月の間に。


 否、失われてしまっていても構わない。どれほど姿が変わり果てようと、ただ人魚を守り切るだけだ。十六の娘のくだらない、でも痛切な願いをかなえてくれた人魚。八年に一度島を訪れては海神わたつみのみ恵みをわけあたえてくれた人魚。旭の老いに胸を痛め、ある年その脇腹の肉をみずから切り取って持ってきた人魚――永遠に人魚と共に生きていたい、ただそれだけのために、泣きながら、震えながら、血まみれの肉を口にした夜は、昨日のことのように覚えている。


 旭ののなかで、数珠が砕け散った。船底に散らばる珠の音が華陽の意識を捉えたその瞬間、旭は小刀の刃先を華陽の胸元へと押し込んだ。


「貴様に人魚さまは渡さぬっ!!」


 もっと深く、深く。

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