21-4 「来てくれたのですね」

「貴様に人魚さまは渡さぬっ!!」


 小刀の柄もろとも突き入れた指先に生ぬるく伝うものを感じて小刀を抜くと、椿の花弁がこぼれ散るように、華陽の血がほとばしった。華陽の身は宙に浮いたまま大きく反り、見開かれた瞳も、噎せこんで捲れた唇もまた赤く濡れた。旭の一突きは心臓を貫いた。いくら九尾の狐とて、無事ではいられぬはずであった。


 ……が、海中に沈むかと見えて、妖狐はゆっくりと身を立て直すと、宝石で飾り立てた手で拭った口元を歪ませて、旭の目算違いを嘲った。


「やりますねぇ、この……クソばばあ


 風を切る音と共に尼頭巾はずたずたに引き裂かれた布切れと化した。闇に伸べられた華陽の手にはいつのまにやら金で残酷な装飾を施した緋色の槍が握られており、旭は額を伝い落ちるものの存在を感じていた――こうなってはもう私は助からぬ。せめて人魚さまだけでも無事であればよいのだが、それを見届けることはとてもできな…………


 再び風を切る音に瞼を閉じた旭は、何かが自分の首めがけて振り落とされるのではなく、目の前を燕のようにすばやく駆け過ぎるのを感じた。


「旭さま!」


 海蝕洞の入り口あたり、月明りに蒼く清く照らされて、二人の少女が立っている。ひとりは紛れもなく翼ではあるが、纏う衣装は水色の羽織に紺色の袴であり、その腰に帯びられているのは刀である。どこかで打ちつけたものか、その額を乾いた血が痛々しくも占拠していた。だが、瞳は気高く凛々しかった。これまで旭が見てきた翼の瞳よりも、ずっと。もうひとりは旭の知らない背の高い少女であり、翼のすぐ後ろに立って矢をつがえている。どうやら先ほどはこの少女が矢を射掛けたらしい。


「翼……来てくれたのですね」

「旭さま、ここはあたしたちに任せてください。人魚さまのことは必ず守りますから」


 少女は目だけを洞窟の奥に据えたままそう言うと、すばやく海面へと降り立った。その足は凪ぎの波間を踏んで駆けた。踏まれるそばから立つ白波は清い睡蓮の花へと変わり、少女のために足場を作った。洞窟の奥に向かって駆けながら、少女は羽織をはためかせ、しろがねの刃で空を切った。


 不意を突かれた華陽は、突き刺さった矢を肩口から引き抜いて投げ捨てると、槍で刀の一撃を受け止めた。槍と刃がぶつかりあう甲高い音が洞窟内に木霊こだました。


「あらあら生きてたんですか、翼ちゃん。いえ、青龍さんと呼ぶべきですかね」


 華陽の目が青龍の頭越しにちらりと入り口付近に向けられる。


「わざわざお友達まで引き連れて。遠方よりご苦労さまでーす」

「突き落としてくれてありがとう、華陽。おかげで目が覚めたわ」


 おそらくこんな笑い方をしたことがなかった。青龍は敵を前にして、その腕に、手に力を漲らせながらも、口元だけは悠然と笑っていた。


「あたしたちはね、あんたや漆にだけは、絶対に負けないのよっ!」

「頭でも打ちました?忘れたなら思い出させてあげますね。あなたはひとりではなんにもできない翼ちゃんなんですよ?自分で信じていたより、望んでいたよりずっとずっと弱いんです。だって、恋ひとつ叶えられないじゃないですか。あなたにはなーんにも守れませんよ……っ!」


 足元の睡蓮が沈みゆくのを感じて、青龍は闇を跳んだ。華陽の槍が空を切り裂いたのとほぼ同じタイミングであった。玄武の放った矢が頬のすぐ横を過ぎ、ツインテールをふわりと空に回せる感覚を心地よく感じながら、青龍は刀の切っ先で狙いをさだめた。


『走井!!』


 わかっている。あたしは弱い。自分で信じていたより、望んでいたよりずっとずっとずっと弱い。でも、思い出したのだ。青龍は敵と立ち向かう力を、己の強さを、自分のなかから見つけ出してきた。正義――ただ大切なひとを守るためにひた走る力。夜の公園で思いがけず自分の使命を見出した時、まだなぜ自分がそうすべきかも知らなかったのに、なんのためらいもなく「戦う」と口にしていた。あの時、翼を突き動かしていた力。痛みも恐れも、そして自分の弱ささえも飛び越えさせてくれた力。


「あたしは守るんだからっ!」


 玄武の睡蓮を踏み、青龍は再び駆けだした。華陽は青海波を辛くも避けたようではあるが、玄武の神渡からは逃れきれなかったものとみえて、太腿に矢が突き刺さっていた。それでも華陽の動きは鈍らない。青龍の刃と華陽の槍が宙を薙ぎ、青と赤の火花が稲妻の如く、洞窟の闇に閃いた。


 ……旭が見つめるうちに、華陽の槍の柄が青龍の足を払ったかのように思われた。旭は半ば身を起こしかけ、その動きで小舟が揺れた。よろめいた青龍は飛沫を上げて波間に倒れた。


「翼!」


 と、青龍の上げた飛沫を割って、美しい白い大蛇が現れて、氷柱のごとき牙を華陽に振り下ろした。華陽は槍先で牙を弾いたが、海へと潜る大蛇の尾が華陽の身を跳ね飛ばした。洞窟を震わせ、砂塵を立てて岩壁に衝突した華陽の身に、飛魚のように飛びかかっていくものがある。それは、白蛇の上に立つ少女が続けざまに放った矢であった。


『葦垣!』


 水柱の勢いに乗って飛び上がり、しなやかに空を蹴って、青龍は凍解の刃にきらめく雫のうちに華陽を見た。華陽の左耳と右手の甲は矢に穿たれて岩壁に磔にされ、さらにその全身は玄武の葦垣の技によって蔓に巻かれている。槍だけはまだ握っているもの、身動きは取れないようだ。食いしばった口元から牙のような犬歯が砕けて小さく光った。華陽の赤い目がまさしく狐のように吊り上がって、青龍を睨みつけた。


 今こそとどめを刺すときだった。聞きたい事は山ほどあるし、情報を聞き出さなければならないのかもしれない。だが、この女を一秒でも長く生かしておけばわざわいはそれだけ膨れ上がる。この女はそういう生き物なのだ。

 背後で木守こまもりが海面より顔を突き出した気配がする。弓弦が張りつめるかすかな音に、青龍は後ろに立つ玄武の存在を感じ取った。冷えた身にあたたかな血が流れだすようだった。どんな傷ついても玄武が癒してくれる。何度倒れても玄武がそばにいてくれる。離れていても、四神のみんなと、京姫と、心はつながっているから。だから……!


(だから、あたしは守れるの……!)


 青龍は深く息を吸うと、高らかな声で、凍解の雫を払った。



『青海波!!!!』



 白い波濤を立てて、海の波とひとつに溶けあった青龍の青い波が華陽へと押し寄せていく。波の背に覆われて華陽の姿は青龍と玄武から見えなくなった。が、最後の瞬間まで蔓をほどこうともがいていた華陽にどうする術があったというのか?清い波に押し流されるより他に?


 波が岩壁を洗い、華陽の身は跡形もなく消え失せていた。けれども、勝利の喜びも事が終わったあとの感傷も至らぬ間に、青龍と玄武はぞくっとするような悪寒を背中に覚え、同時に同じ方向へと身を返した。二人が目をみはったのも、また同時であった。


「あっ……!」


 駆けつけようとした。でも、間に合わない……!小舟は一瞬前の揺動を留めていた。旭の身は宙に貼りつけられたかのようにその場に静止し、華陽もまた同様であった。華陽は船べりに立ち、旭の背を見下ろしたまま。旭は背中から胸元を槍で貫かれたまま。


「……ほうら、お返しですよ。おばあちゃん」


 華陽のちぎれた耳が滴りおちる血が、時を刻んだ。槍が引き抜かれると、僧衣の上半身はどさりと船底に倒れて、青龍と玄武の目から隠された。華陽の眼だけがその姿をじっと見つめていた。緋色の服は無残に破れ、琥珀の素足と白いレオタード姿を艶美にさらした華陽。かつて天竺で幾千人の首を斬り落とさせ暴虐をきわめたという華陽――血にまみれてもなお、残忍な笑みを浮かべつづける華陽。


 怒りの声を放ったのは木守だった。怒り猛る木守は牙を剥いて華陽へと飛びかかった。その速さたるや、玄武でさえ木守の身にしがみつくのがやっとであった。木守を跳ね返そうとした拍子に、華陽の手から槍が離れて海に沈んでいった。だが、木守の身もまた大きく宙と飛んで、玄武もろともに水底に消えていったのだ。


「玄武!」


 一瞬目を離したのが仇となった――華陽が武器を失っていたということで、油断していたのかもしれなかった。左の肩口に鋭い痛みを覚えて見てみると、黒い鉄のようなものが肩より飛び出ているのがわかる。いや、ちがう。飛び出てるんじゃなくて、突き刺さってるんだ、これ……クナイだ。


(あれ?あたし、前も……)


 クナイを引き抜いた。くらくらする。傷口が熱い。ああ、これやっぱり毒だ。前と一緒。篝火に幻術世界に閉じ込められたときと。ほら、なんだか視界がぼやけてきて、真っ暗になって。でも、真っ暗なのは、えっと、元からだっけ……?



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る