21-2 乱入

 はつはつと爆ぜる薪の音が、湧き出づる清水の音を掻き消している。だが、炎の色は流れ出る夜そのもののような水の在り処を照らし出す。じっと見つめている者たちの目には、炎もその熱も、清水より放たれているように見えてくる。


 ――片鰭岳の山上に、いまや島民のほとんどがより集っていた。先ほどまではお重の中身などを振舞いつつ鷹揚に語り合っていた島民たちが真摯なまなざしを向けているその先に、旭さまのお背中がある。旭さまは湧き出る清水のかたわらに正座をして、瑠璃色の数珠をかけた両掌りょうてを合わせ、オモリと呼ばれる古い呪詞を、巫女の一族にだけ伝わるという人魚を迎えるための祝詞を、低い声で唱えていらっしゃる。この八年に一度の祭りの儀式らしい儀式はこの迎えの儀よりはじまって、この後に巫女と島の女たちだけが浜辺へ下り(この夜、浜は男子禁制の場である)、さらに巫女ひとりが代々口伝で受け継がれているという人魚の寄り来る場所へと向かうのだ。巫女と人魚とはそこで一晩睦事を交わす。そしてまた次の逢瀬の時までの島の平和と繁栄が約束されるという。


 戦前この海原島に降り立ったとある民俗学者によれば、オモリの語源は思いであるという。その詞章はもはや東京方言をも自在に操る島民には耳慣れぬものになってしまった。だが、確かにそれは思いなのであった。人魚を恋い、懐かしみ、再会を喜ぶ思い。一言たりとも嘘偽りであってはならぬ思い。決して途切れることがあってはならぬ思い。


 空の上を吹き渡る風が雲を払い、三日月が顔をのぞかせた拍子に、その思いがふいに途切れた。旭さまのお声にうっとりと酔っていた島民たちは、馴染みなき沈黙が鼓膜を痺れさせていることを知ると、ある者はけげんそうに、ある者は青ざめて顔を上げた。皆が一様に旭さまを見た。驚いたことに、旭さまはゆっくりと立ち上がっていらっしゃった。六十年近くにわたってこの儀式に立ち会ってきた井頭の目にも、こんなことは初めてのことである。巫女がオモリを中断して、席を立つだなんて。しかし、咎めることもできかねた。井頭はあまりにもこの夜を重んじていたから。


「……動いてはなりません」


 旭さまが口を開いてもなお、誰ひとりとして身じろぎひとつするでもなかった。島民の顔は一様に緋色の炎に照らし出されているだけだ。


「危険が迫っています。けれど、誰一人としてこの場を動いてはなりません。よいですね?」


 旭さまの鋭い一瞥を受けて、戸惑ったように顔を見合わせる者たちが幾人か。しかし、多くの者たちはやはりなおも夢見たように呆然として声も立てられないままである。


 と、三日月から哄笑が降ってきて、人々は皆いっせいに腰を浮かせ、あたりを見回し始めた。旭さまひとりだけが眉をひそめた。不意に燃え盛る炎が掻き消えた。闇のなかにどよめきが広がった。


「静かに」

「さっすがですねぇ。まあ、だてに長生きしてるわけじゃないですよね、おばあちゃん?」


 皆がいっせいに振り返った。人魚の神社の鳥居を潜り抜けて、暗い森のなかから月影の下へと姿を現したのは、異邦の女の姿であった。褐色の肌に纏うのは古の人々ならば天竺風とでも呼んだであろう鮮やかな緋色の衣装と、見た目にも重苦しいほどのきらびやかな宝飾品である。そして、女は異邦であると同時に異形でもあった――黒髪の流れ出すところから突き出ている三角形の白い耳と、裳の後ろからのぞいている尾とが、その証である。


 女は、島民たちの頭越しに旭さまに不敵な笑みを投げかけたまま、素足でゆっくりと島民たちの方へと歩み寄っていったが、数メートルほどの距離を置いて立ち止まった。 旭さまはいつになく険しい顔で、異形の女と、華陽と、対峙なされた。


「神聖なる儀式を妨げ、島の平和を蹂躙せんと企む者よ……お前の狙いは何だ?」

「狙いですって?シンセーなる儀式を妨げ、島の平和をジューリンすることですよ。それ以外になにがあるというんです?」


 華陽は美しい指から大きなエメラルドのついた指輪をひとつはずして掌でもてあそびつつ答える。


「それをなに故にと問うておる」

「なに故、なに故ですか。はぁ……これだから人間っていうのは。したいから、それだけですよ。欲望と感情があたしのコードウゲンリなんですもの。ねぇ、皆さん?あなた方だって美しい宝石は欲しいでしょう?美しい女を抱きたいでしょう?美酒に溺れていたいでしょう?それとおんなじ」


 華陽が島民たちの方へわずかに歩み出すのを、旭さまは見逃さなかった。


「これ以上近づくでない」

「あら、怖い顔。でもだいじょぶでしょう?ちゃあんと結界を張っているから」


 旭さまは黙って目を細めた。


「オモリを唱えるふりをして途中から結界を張っていましたね?ちゃーんと聞いてましたよ。まったく。民思いの優しい巫女さま。でも、それで人魚さまが来られなくなったらどうするんです?」

「……お前はこの島の者に指一本触れられません」


 今までとは違う強いなにかが、感情を押し殺した声から滲み出ていた。華陽の登場よりも、存在よりも、島民を不安にさせたのはその旭さまの声音の方である。異様な事態が起こっているということをなによりも現実味を以って知らしめようとしていた。


「即刻立ち去るがよい」

「ふふ、嫌ですよ。だって、華陽ちゃんの柔肌に触れられぬ憐れな皆さまに、華麗なる幻術イリュージョンをご覧いただきたいんですもの……では、皆さま、おたのしみあれ」


 悲鳴があがり、島民たちは突如として荒れ狂う海のなかに放り込まれた。鉛色の荒海は冷やされた鉄の無慈悲な冷たさを以って島民たちに襲いかかり、肺を塞いだ。かと思えば、次の瞬間、海は燃え盛る炎となって皮膚を爛れさせ、また次の瞬間には、あたりは恐ろしく悪意を持った暗黒に包まれた。闇の奥から激しい息づかいが聞こえたかと思った刹那、悪鬼、魔獣の類が押し寄せてきて、人々の脛の肉に食らいつき、貪りはじめた――そのように、当の島民たちには感じられたのだった。


 しかし、旭さまの冷徹なお目には、土の上で溺れたようにもがき、むせび泣き、のたうちまわる島民たちが映るのみである。旭さまはかすかに顔をしかめると、沸き起こる土煙から袖で口を覆って、片手にかけられた数珠に向かって念じられた。


(皆の者、気を確かに。すべては幻に過ぎません)


 阿鼻叫喚がすっとやんだ。救いをもとめて伏せまろんでいた人々は、涙と土に汚れた顔を恐る恐る上げて、新月のように澄明に、冷然と立ち尽くす旭さまのお顔を見つけてようやく現に戻った心地がするのであった。しかし、旭さまのお目は氷像のなかに灯された炎のように、冷たくも強く燃えて、妖しき女を睨んでいた。


「やっふー!さっすがー!」


 妖しき女は妖しき女の本分を忘れる。華陽はいかにも楽しげに笑いながら手を打って言った。そんな軽薄な所作を以ってしても、なおも香水のようにべっとりと付きまとう色香が消え失せぬのを知っているように。華陽の笑いにつられて、緋色の衣装がさざめききらめく。


「やりますねぇ、おばあちゃん!でも、あたしの幻術イリュージョンもなかなかだったでしょう?ねぇ、どうです、おじいちゃん?もう一度見たいと思いませんか?」

「無駄です。井頭はお前の幻術に二度も惑わされるほど愚かではありません。去りなさい、女狐!お前の正体がわかった気がいたします」


 笑いが消えた。不気味な沈黙のなかに華陽が投げ入れたものが、ぼとりぼとりと、熟しすぎた果実が落ちるような音を立てて、横たわる住民たちの足元に、目の前に、転がった。一瞬ののちに、悲鳴が再び夜空をつんざいた。旭さまもまた顔色を失われた。


「どうぞ、皆さま!華陽ちゃんからのプレゼント!久しく会ってなくてさびしかったでしょう?こっちは本物ですよ、ちゃあんと」


 猛然と華陽を射た旭さまの眼が、はっと揺れた。変わり果てた仲間の姿を見ていよいよ恐怖に駆られた島民たちが我先にと逃げ出しはじめたのであった。静止の声ももはや届かぬ。


 結界を乗り越えた人々の足は張り巡らされた華陽の残酷な罠に捕らえられていく。月光を凝らせて鋳たような黄金の甲冑を被った騎士たちがどこからともなく現れて、島民たちの行く手を塞ぎ、輝く斧を振るい、刃を差し込み、槌を落とすのだ。月影の下に、あたりには潰れた柘榴のような骸が散らばり、血しぶきに白い尾を穢されても華陽は悠然と微笑み続けていた。


 人々は、あるいは辛うじてその場に踏みとどまった人々は、無残な最期を遂げる家族の、友の、あるいはもっと親しい人たちの影絵を浴びて蒼白になり、立ち尽くす者は声もなく、崩れ落ちる者は身を震わせ、倒れ込む者は嘔吐していた。儀式にあたって眼鏡をはずされていた旭さまの、瞠ったお目には、事のありようがますます残酷に鮮明に映り込んでいた。この島が、ましてやこの片鰭岳の聖域が血に濡れるのは、かつてないことであった――この八百年もの間。


「ねえ、華陽のお願い……聞いてくれますか?」


 冷たいものがぞくりと背筋を撫であげる。本能的に逃げかけるも、旭さまはすでに自分が逃れ得ないことを悟った。女の声は耳元よりした。背後をとられたのだ。


 鋭い鉄の感覚が、尼頭巾越しに首筋に迫っていた。振り向くこともできずに、旭さまは冷ややかにまなじりに眼を寄せて、背後の豊満で邪悪な芳香の方を見遣ろうとなさった。


「……神聖なる儀式を妨げ、島の平和を蹂躙したはず。この上望みがあるというのか」

「やっだー。覚えてくれたんですね?華陽ちゃん感激!でも、もうひとつ覚えててほしかったですねぇ。欲望と感情があたしのコードウゲンリなんですよ。そして欲望と感情に際限なんてありません。だからもうひとつ欲しくなっちゃったんですよねぇ」

「人魚の肉ならここにはない」


 おやおやおや、と華陽は尼頭巾に頬を寄せつつ片眉を上げる。


「まさか華陽ちゃんがあれを探してると思ったんですか?とんでもなーい。もし手土産に持っていければ相方が喜ぶかなーなんて思ったんですけど、ただそれだけ。干物ごときに用はありませんよ。もっとも……」


 先の細く尖った舌が唾液に濡れて、紅を塗った唇を舐め上げた。その仕草はまさしく獣であった。


「……生肉だったら別ですけどね」


 旭さまははっと目を見開かれた。突きつけられている武器を忘れて振り返ろうとした一瞬、旭さまは怒りに我を忘れていたのだった。口走りかけた憤怒と罵倒の言葉を、華陽はまた猫なで声で制した。


「おやおや、口には気をつけた方がいいんじゃないですかぁ?わかってるでしょう?あたしは結界を破ったんです」


 誇り高き野生の荒馬が初めて人の手に捕らえられたとき、彼もまた今の旭さまのような屈辱に打ち震えたのであろうか。それは生命を支えている樹をも立ち枯れさせるほどの汚毒であったはずである。だが……


 旭さまの瞳はいつも島のすべてを見渡していられた。島民ひとりひとりの顔を見つめていられた。生まれ、そして死にゆく島民たちの顔。その顔のなかで、絶えては受け継がれていくもの。今この瞬間、旭さまのお目は、聖域にあって打ちひしがれる島民たちの顔に注がれている。彼らの命だけは、せめて助けられるかもしれないのだ。この世界で最も愛しいものを犠牲にさえすれば。


「……案内します」


 歩み出す旭さまの後ろ姿を呆然と眺めていた女たちにはきっとわかったことであろう。旭さまの行く先が。そして、旭さまが何を犠牲にしようとしているかが。


「まさか、人魚さまを……!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る