20-4 「わたくしが呼んだばかりに」
「ごめんなさい」
誰……?
「私の
誰かがあたしの頭を撫でている。すごくさびしくて悲しいはずなのに、なんだかほっとする。
「かくなる上はわたくし一人で守らなくては……」
どこへ行くの?……待って。行かないで、お願い――
目を覚ました翼の背は、畳を刺す斜陽の鮮烈な色に染められていた。泣き疲れて眠ってしまったと見える。だが、それにしても長く眠っていたようだが……
熱く、気だるい眠りからゆるゆると身を起こすと、肩にかけられた毛布がはらりと落ちた旭さまはいない。ただ、旭さまが座っていたその奥の、斜陽さえも行きつけぬ暗がりに、線香の煙がほのかに立ちのぼっている。そして、旭さまが座っていたところの少し手前に、紫色の布をかけられたなにかと、一筆箋。
今夜私は帰りません。きちんと食べて休むこと。明日の朝の便で帰る支度をしておいてください。今夜はくれぐれも外に出てはなりません。よいお年を――翼がいざって手にした一筆箋には墨の字でさらさらと
翼は急に空腹を覚えた。そういえば、朝からなにも口にしていなかった。なんとなくいつも旭さまと差し向かいになっている場所で食事をすることはためらわれて、いつもの囲炉裏端におにぎりを運ぼうとしてみたけれど、それもなんだかさみしいように思われて、翼はその場で手を合わせた。少なくとも線香の煙と差し向かいになっていれば、旭さまと向き合っているような気にはなれる。
旭さま――
どこへ行ってしまわれたのだろう、とまで考えて、翼は気づいた。今日は八年に一度の人魚を迎える日だ。だから旭さまは儀式のために出ていってしまわれたのだ。
梅干しのおにぎりの最後の一口を呑み込みながら、翼は袴の上でぎゅっと握りしめた。冷えた米が喉を降りていく感触が、翼にかすかな身震いをさせる。旭さまは今夜は外へ出てはならないと書き残していた。だが、その時、翼の瞳の端が、今年最後の夕焼けを捉えた。
「……ごちそうさまでした」
翼は掌を合わせる。まだおにぎりはひとつ残っている。でも、これをいただくのは帰ってきてからだ。人魚の神社へと行って、きちんとこの目で何があったかを確かめてから……
風が
夜気は冷たく肺を切りつけ、夕闇の色をにじませる。黒い木立のなかでは手を伸ばした先さえ見透かすことが難しい。踏みつける小枝のはぜるような音、蹴り飛ばした小石の転がっていく音が妙に耳元近くに聞こえてくる。けれども、翼は少しも怖じずに山の斜面を駆けのぼり続けた。
山頂に着いたとき、翼はまさしく今年最後の陽光が水平線の向こうに沈むのを目撃した。
だが、翼は日没を見届けると、息を整える間もなく再び走り出した。宵の底でひっそりと何かを縫い上げているように湧き出ている清水のかたわらを抜け、鳥居を抜け、ただ星の光だけを頼りに、翼は祠の前に立った。
翼ははっと息を呑んだ。闇に慣れてきた目が、こぼたれた祠の惨状を映し出したのである。扉は引きちぎられ、屋根は崩れ、その周囲に残骸とおぼしき石の破片が転がっていた。ただのいたずらにしてもひどすぎる。島民たちの言うことは最もだ。こんなひどいことをこの島の人たちができるとは思えない。翼にだってできないことを、島民たちが理解してくれればいいのだが。
(待って、この光景、どこかで見たような……)
翼は片手をこめかみにあてて考えた。前世の記憶?ううん、違う。もっと近い記憶で……そうだ、花魁井戸。ううん、正しくはそうじゃなくて、
その時、遠からぬ人の気配に、翼は我にかえる。いけない、島の人たちがやってきたのだ。ここにいれば、またなにか悪事をたくらんでいることかと疑われるかもしれない。旭さまはきっとこのために外出を禁じたのだ。この神聖な迎えの夜に、厄介ごとが持ち上がらぬように。面倒ごとに翼が巻き込まれないように。
先導の鈴の音が弾ける。参道を引き返そうにも人々は鳥居をくぐってこちらへやってくるようだった。翼はあたりを見回して、どこか身を潜める場所はないかと探した。人魚の神社を囲む森のなかならばいくらでも身は隠せるが、こんな暗いなかで森のなかをさまよっては迷子になるのは確実だ。うっかり足を滑らせでもしたらそれこそ一大事だ。大けがをするよりは島民たちの疑いの目を向けられる方がまだましなのかもしれない。
(でも……)
「しらばっくれるか、おのれ!」――井頭と呼ばれていたあの老人の声が頭のなかに甦る。その瞬間、翼は冷たい手が心臓をわしづかみにされたような気がした。耳の奥で砂が流れるような音がする。いやだ、やっぱり会いたくない……!
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