20-3 「神社が荒らされたのです」

 ……さらに不快な出来事が翼を訪った。それは朝の炊事をしているときに起こった。ひとり立ち働いていた翼は、なにやら門のあたりでがやがやと騒いでいるような気配を察して厨の勝手口からそっと覗いてみると、まさしく門前に大勢の人が押し寄せて、旭さまになにか訴えかけている気配であった。旭さまの横顔は相変わらず落ち着き払っていたが、島民らしい人々は表情といい身振りといい声音といい、あきらかに憤り、興奮していた。島民たちの先頭に立っているのは、背が低く痩せた白髪の老爺で、よく日焼けした掌に載せたなにかを必死に旭さまに示しているようであった。しかし、一体どうしたというのだろう。これまで会った島民たちは(さほどいないとはいえ)皆、旭さまのことを心から尊敬し、話題にのぼせることさえ憚っているようであったのに、人々がこれほど旭さまに怒るとは。


「……あんたはそういってあの娘っ子庇うがな」


 老爺のわめき声が聞こえてきた。


「なにもかもあの娘っ子が来てからじゃ!昨日あの娘っ子が神社のまわりをふらつきまわっとるのを見たもんもおる」


 あの娘っ子……?


「その程度のことでは証拠にはなりません」

「じゃが、あの娘っ子以外に誰がするんじゃあ?……のう、旭さま。よう考えてみい。わしら島のもんはこんなことせん。しようったってできっこねぇ。この島のもんには島の血が流れとる。わしらのじいさんも、そのまたじいさんも、ずっと人魚さま拝んできたんじゃのに……わしゃご先祖さまに申し訳ない。わしらが守らなきゃいけなかったんじゃあ。そんなのに、のう……」


 いつしか老人の声はすすり泣きに変わっていた。つられて老人の後ろに集う人々もしくしくと鼻をすすったり、肩を震わせたりしはじめる。翼はもういても立ってもたまらなくなった。踏み出した一歩から、翼は駆けはじめた。この頃には、もう「あの娘っ子」なるものが他ならぬ自分であることに翼は気づいていたのだ。自分に何かしらの嫌疑がかけられている。それも、人魚の神社に関することで。


「一体なにがあったんですか?」


 翼の声に驚いて、島民たちは一斉に顔を上げた。旭さまもまた翼の登場は予想外であったようだった。島民たちの素朴な丸い目が、たちまち敵意の目つきに変わるのを見て取ったからか、旭さまは静かな声で翼を制した。しかし、翼はやめなかった。震える声で必死に尋ねた。


「一体なにがあったんですか?あ、あたしが……あたしが一体なにを…………」

「しらばっくれるか、おのれ!」


 老爺は両腕を振り回さんばかりにして再びわめき出した。


「おめえがなにしたか、お前がいちばんよーくわかっとるじゃろが!!」

「神社が荒らされたのです」


 旭さまがそっけなく言った。


「祀られていたはずの人魚の肉も盗まれてしまいました」

「そんな……!」

「見やがれ、これを!!」


 老人は涙と唾を飛ばして怒鳴りながら、唖然とする翼の前に空の香箱を突き出した。確かに神社に祀られていたものだ。


「この箱が何メートルも飛ばされて転がっとった!おめえみたいな不信心者にはいーまに祟りが下る!人魚さまの肉盗んで何しやがるんじゃ?!今すぐ返せ!!」

「ですから翼は犯人ではないと言っているでしょう」


 旭さまはそれ以上老爺が翼に迫らないようにと、僧服の袖をかかげて帳のように二人の間を仕切られた。


井頭いがしら、この子の潔白は私が保証します。それでもこの子を疑いますか?」

「あんたんことは信用しとる。じゃが……じゃが、いくらなんでもおかしなことが多すぎるんじゃ、ここんとこ」


 井頭と呼ばれた老爺の言葉を受けて、そうだそうだと島民たちがざわめきだす。


「一昨日から三人も行方がわからん。今朝また一人見えなくなったそうじゃ。この娘っ子が来てからじゃ」

「その話は知っています。ですが、この子はずっと私と一緒にいるのですよ。そもそもこんな幼い娘が大人四人に何ができるというのです」


 もっともな指摘を受けても、井頭は長く伸びた白い眉の下から疑い深く翼を睨みつけた。


「ともかくこの娘っ子はおかしい」

「勝手にお言いなさい。神社のことは心配しなくても、人魚さまは今宵やって来られますよ。祭りはいつも通りに行います。よいですね?」


 島民たちが納得したようには見えなかったが、ともかく旭さまのお言葉を受けて、島民たちはくるりと背を返して元来た道を引き返しはじめた。井頭は最後まで執念深く翼を睨んでいたが、旭さまと目が合うと、ぶつぶつとなにか言いながら香箱を預けてその場を去った。


 翼は旭さまとともに、家の前の急な坂を島民たちが下っていくのを見送っていた。そして島民の背中が坂に覆われて見えなくなると、急にわっと声を上げてその場にくずれ落ちた。


「翼、中へ入りましょう。ここは人目があります」


 旭さまはいつも通り厳しい声でそう言うと、屈みこむ翼の背中を置き去りにして一足先に家のなかへと戻ってしまった。




「もう帰りますっ……!」


 先ほどから畳の上に伏して一つ事を繰り返し続ける翼を、旭さまは静かなまなざしを注いでいらっしゃる。そのみ手には水泡を思わせる瑠璃色の数珠がやはりかけられていた。


「もういや!桜花市に帰るっ!!もう耐えられない……!こんなところに、たったひとりで……っ!」

「ひとりでいるよりは、弱い自分のままでいる方がよいというのですか」


 旭さまはそう尋ねられた。


「弱いまま帰れば貴女は失うかもしれないのですよ、大切な人たちを……」

「なら、あたしに何を教えてくれたっていうんですかっ?!」


 畳の上に拳を叩きつけて、翼は怒鳴る。もはや礼儀さえも忘れていた。無理もない話である。十四歳の少女にとって、見ず知らずの他人から突如として故なき憎悪を向けられるということは、疑いのまなざしを向けられるということは、あまりにも辛いできごとであった。ここには庇ってくれる知り合いもいないとあってはなおさらである。翼は鼻をすすってさらに続けた。


「なら、あたしに何を教えてくれるんですかっ?!ここに来てから、あたしはなにひとつ学んでません!ここにいたって強くなれるわけがない……っ!」


 旭さまは押し黙った。決して図星を突かれたための沈黙ではないことは、動揺している翼にもよくわかっていたが、旭さまが言葉を返すことをまるきり諦めてしまったように思われて見放されたような悲しさを覚えた。かといって、翼は自らの言葉を撤回しようとはしなかった。それほどまでに、翼は縋りたかった。救われたかった。


 差し入る昼間の弱い日は障子紙を透かしても、震える翼の膝までは届かなかった。旭さまは翼からお目を転じて、その日の差し込む方を遠く見定めるようにされていた。


「……今日は大晦日おおつごもりです」


 旭さまのみのうちで数珠がかすかに鳴った。


「今日は午後の船はありません。堪忍なさい、翼さん」

「……っ!」


 翼の嗚咽が再びあふれだして、畳の上の僧衣の裾を浸していく。それでも老尼は身じろぎひとつするでもなく、ただ静かに掌を合わせ続けていた。






海原島行きフェリー時刻表

乙姫市つばいち港 9:00発→椨木島→海原島 10:45着





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