20-2 人魚の泡


 鶏の声にはっと目を覚まし、慌てて飛び起きた。翼はいそいで身支度を済ませると潮騒とどろく暁闇に出でて、朝ごとの静かな歩みをはじめた。しかし、非情なほどに清冽な冷気に触れても翼の心はなお、夢の泥をかぶったままであった。


(嫌な夢……)


 足元を乱しては危ないのだから目の前のことに集中しようとしても、心は海の底に引きずり込まれていく……夢のなかで、翼は瓶のなかにいた。瓶には水が満たされていて、翼の身は半身半魚の人魚の姿であった。脚は鱗におおわれたゆたかな尾に変わり、上半身は衣一つ纏わず、ただこまやかな水泡みなわがいくつもいくつも皮膚の上に実を結んでいた。瓶のなかは窮屈で翼は身を翻すことさえできない。瓶を内側から幾度叩けどガラスは割れず、声をあげようにも口から出る言葉は、叫びは、ただあぶくに変わるだけであった。


 瓶の外の世界は、はじめは餡のようなぼやけた暗闇であったが、次第に分厚いガラスを透かして瓶のまわりを行き交う人影が現れはじめる――親しいものたちは、瓶などに、翼の存在などにまるで気がつかないようすで、遠くから照らし出されたように現れては闇のなかに消えていった。笑いあうその声だけがいつまでも響いていた。家族のも、クラスメイトのも、舞のも、ルカのも、玲子のも、奈々のも…………


(もう嫌、誰か……!)


 翼の心は、助けて、とそう言いかけたのかもしれなかった。だが、救いの手を求めることに慣れていない心がためらったその拍子に、なにかがどこからともなく転がってきて、瓶にぶつかった。そして、翼がその正体を見定めているうちに、恭弥が現れたのだ。桜花中学のユニフォームを身に着けて、ボールを追いかけてやってくる恭弥の姿が。水に揺蕩う翼の尾鰭の先に転がっているのはサッカーボールであった。


 恭弥の顔を認めたその瞬間、翼は声ならぬ叫びでその名を呼んだ。恭弥になら聞こえるかもしれない。胸に沸いた悲痛な望みにかけて、翼は生まれて初めて、彼にすなおに想いを打ち明けようとしていた――お願い、助けて恭弥。あたしをここから出して。あたしに気づいて……!


 こちらを見つめた恭弥の瞳が、一瞬強く燃え立った気がした。だが、恭弥は輝きをそのままに背後の闇へと向けた。翼の目にはまだ捉えられぬなにかに、恭弥はいち早く気づいたらしい。失望する翼の瞳にそのなにかは、その少女ひとは深々と影を投げかける。


 お揃いの桜花中学サッカー部のユニフォームをまとって、佐久間美香は明るく駆けてきて恭弥の隣に並んだ。微笑み合う二人を正視することはとてもできなくて、翼はさっと顔をそむけた。心臓が早鐘のように鳴っている。内側からこの身を叩き壊そうとするように。頭のなかで壊れた機械のようなノイズが響いている。ああ、なんてやかましい笑い声なの。ここは静かな海の底のはずなのに……そこで翼ははっとする。あたしはなにを考えているのだろう。


 瓶の外に転がっているサッカーボール。触れられるはずもないのに手を伸ばしたその時、翼は指先から切ない海の泡となって消えていった。まるで、より集って翼の身体を成していたものが、翼の魂を見放していくように。嫌、嫌、嫌……!お願い、気づいて、こっちを見て、助けてよ恭弥……!ねぇ、助けてよ、誰か……!この叫びはどこにも届かない。無数の真珠の泡となって、翼は海の底へと溶けていく。滲み出て水のなかにふわりと浮かび上がる涙の泡のむこうに唇を重ねる二人の姿が見えた気がした。そして、その涙こそが翼の最後の一粒となった。


 ああ、かわいそうな人魚姫


 恋はかなわず海の泡


 その身は溶けて、


 その苦しみは、海の底までひろがって……



 ……水底――――



『青木さんが羨ましい……』


 翼は海鳴りのなかで足を止めた。


『青木さんはこれまでもずっと東野の隣にいて、これからもずっと東野の隣にいられる。だって幼馴染だから……』


(そんなことない……っ!)


 湖のほとりで聴いた少女の声に、断崖の半ばで翼は憤りと悲しみを以って叫んでいた。


(あたしだって、きっと恭弥に置いてかれる。もし恭弥が佐久間さんを選んだら……ううん、きっと恭弥は佐久間さんを選ぶよね。だって、あんなに楽しそうに二人で笑って……)


『青木さんなんて消えちゃえばいいのに……!』


(そうだよ、あたしなんて…………)


 大波の岩に砕けるその振動が、翼を目覚めさせた。翼はその振動を右足の裏に感じていた。左足の裏はくうを踏んでいた。そのまま垂直に鉛色の海に続く空へと。


 翼は蒼ざめて左足を引き戻すと、岩の壁にもたれかかった。息が知らぬ間に乱れていた。これまでも戦いでなんども危ない目に遭ったことはある。けれども、こんな風に、日常の合間に命を絡めとられそうになったことはなかった。そしてこうした壮大な自然を前にしては、青龍としての能力はほとんど役に立たないも同然なのだ。灰色の空を背に青龍の鈴をかかげてみて、翼はじっとそこに目を寄せた。玉藻の国の神。東の守護神。水を司る聖なる龍――滅びた国の神は、青木翼を取り囲んでいる現実世界では、なんの権威も持たない……ああ、なんてあたしは弱いのだろう。



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