第二十話 大つごもり

20-1 罪と罰


 鋏は重みのままに、白い指から逃れて土の上に落ちる……



「ほら、見て!すごいでしょう?!」


 そう言って彼女が示したものに、八重藤ははっと息を呑んだ。京を離れてから一度たりとも八重藤はそれを見たことがなかった。その花は天つ乙女が愛された花であるから、天満月媛さまを祀るこの月修院では植えてはならぬ決まりになっていたのだ。だが、月の女神の森にひっそりと佇んでいるだなんて。薄紅色の袖をひろげた女人のような桜の大樹…………



 …………その美しさは七度目に見るこの春もやはり変わらない。否、むしろいよいよ立ちまさり、いっそうの感動を誘うようにさえ思われるのだが、この年始に十六となった八重藤はだんだんとそこに恐ろしいものさえ感じるようになっていた。まるで罪のうちにこの上ない歓喜を見出すときのように、八重藤は桜の美を畏れ、うちふるえた。


 しかし、確かに桜は二人の罪の証であった――


 八重藤は夢のなかで、神代の清い乙女であった。桜のもとに憩っていた彼女がふと顔を上げたとき、女神が彼女に接吻をした。


 なおも唇に重みを感じたまま八重藤が薄く瞼を開くと、熱を帯びて潤んだ紫紺色の瞳があった。八重藤の全身もまた病毒のような気だるい熱に支配されていた。素肌を通る風の涼しさも乳房の上にきつく押しつぶされ、あるいはぬるんだ舌の上で湿ってしまう。これが罪、そして罰だ。ちぎれるほどに強く互いの手を結び合ったその果てに、どうしてもその先に行きつけぬほんのわずかな白い茫漠があることを知り、二人はふと離れ、藤尾の裸身は剥がれたように草の上に落ちて、八重藤の隣に横たわった。


「……眩しいわ」


 折しものどかな春の雲のを裂いて午後の日が差し込んできたところであった。八重藤は目を閉じて、瞼を透かして入る血潮のごときくれないの陽光を掌で覆い隠した。藤尾もそれにならったようだった。


「八重藤、どこ……?」


 草の上に投げ出した手が探り当てられて、そして固く握りしめられるようすだった。直後に風が二人の清い腹の上を吹き渡り、二人は深い息をついた。月修院の巫女の藤色のきぬと純潔の戒律とに幾重にも守られた乙女の肌は、いまや雲よりこぼれ流れ落ちる日差しを浴びて余すところなくきらめき、草の先にくすぐられてほのかに火照っている。ああ!なんたる無垢なる無恥が二人を充たしていたことだろう!まるで衣服というものを知らぬ時代の人々のように、二人は安らぎ、幸福であった。なぜなら、この日を幾年も前から二人は待ち望んできたからだ――恐らくは十四となった年の夏の夜、はだけた寝間着の内側をしとどに濡らす汗の玉から目が離せなくなってしまった、その瞬間から。


(……ああ、満月媛さま)


 指の隙間から陽光を仰ぎつつ、八重藤は祈った。恍惚の果てでさえ敬虔な彼女は決して祈りを忘れなかった。そして今、思いがけず与えられたこの上ない幸福を、けれども故のない幸福を支えるために、彼女はひたすらに祈っていた。


(わたくしは罪を犯している。今この瞬間罰せられてもかまいませぬ。たとえどんな辱めを受けようと、すべては報いなのだと受け止めましょう……ですが、どうか藤尾だけはお許しください。わたくしたちの罪、わたしひとりが全てをあがないますから。お忘れくださいますな。わたくしが、今以って満月媛を心からお慕い申し上げていることを)


 降ろした瞼の裏の暗闇にも、日輪は赤く幾重にも重なって滲み出る。すると、八重藤は新しい畏れの感情に慄いた。


(ああ、主上おかみよ……!お許しあそばせ。貴方さまがいらしているというのに、このように深く睦み合っているわたくしたちでございます。この不敬をお許しください。そしてどうか、罰するのならわたくしひとりを……藤尾だけは、どうか……)


 日輪にかれた瞳から涙がひとすじ流れ出した。隣に並ぶ人の安らかな寝息を耳にとめて、八重藤はその手をみずからのたなごころのうちに強く強く抱きしめた。まるで襲いくるものから庇おうとするかのように、強く。この春の午後の日、小鳥たちは喜びにあふれてさえずっていた。風が樹々を渡る音が触れるほど間近に聞こえてきた。そして隣の人の寝息――なぜ八重藤は聞き逃したのだろう。そっと歩み寄り、静かに立ち去っていった蹄の音を。天の下しろしめす畏き御方おおんかた、星の皇子の末裔たるお方の…………








「あら、藤尾。わたくしの髪飾りを知らなくて?」

「いいえ、知らないけれど。もしかしてなくしたの?」

「ごめんなさい。貴女からもらったものだから、大事に袖のうちにしまっておいたはずなのだけれど」

「いいの、気にしないで。今度また京で買ってきてあげる。もっときれいなのにしましょうか?もっと色鮮やかな」

「いいえ、わたくしはあれが気に入っていたのよ。本当にきれい。見つめていると心が澄むようだったのに……ごめんなさい、藤尾」

「いいの。八重藤のためならいくつでも買ってあげる……水晶の髪飾りなんて」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る