19-5 「いっそ海の泡に」

 ……結局その日にしたことといえば、水汲みと、三度の食事の支度と、旭さまの邸の掃除ぐらいなものである。前日と何ら変わらない。唯一異なるのは人魚の神社を見にいくように言われたことぐらいであるが、それがなんであろう。ただちょっと散歩に出たのと一緒である。


 旭さま、あたしこのままでいいんでしょうか――こんな問いは何度も口から出かけたけれど、面と向き合うとなかなか容易に形にはならなかった。夕飯の準備のときもそうであった。


 この家での食事はたった二人で、囲炉裏のある古い畳の間でするのである。献立は毎食同じだった。翼が簡単に一品をつくり、旭さまがご飯とおみおつけを用意して、漬物壺から塩辛い胡瓜やら白菜やらを取りだしてくださる。旭さまは卵や肉は召しあがったが、魚は口にしなかった。だが、他人が魚を食すのを咎めるようなこともされなかった。


「私は人魚さまを祀る巫女ですから、魚は口にしません」


 三日目の夜にして、初めて旭さまは翼に打ち明けた。夕飯の支度のときである。驚きのあまり包丁が止まってしまった。


「旭さまが?」

「そうです。私の家は代々巫女の家系なのです」

「では、明日のお祭りも?」


 人魚を迎える八年に一度の明日の行事は、この島の人々にとっては厳かな神事であるとともに、楽しい祭りでもあるらしかった。今日の午後、旭さまとともに村に買い出しに行ったとき、村のあちらこちらに掲げられていた横断幕やらのぼりやらで、それがわかった。村の公民館では、主婦たちがにぎやかに語らいながら米と芋を煮て神酒みきを作っているのを見かけもした。


「えぇ、私が取り仕切ります。夜の御迎えの儀だけですが」

「すごい……!」


 と思わずつぶやいたあとで、翼は無礼だったかもしれないと、竈に屈みこんでいる旭さまからいそいで顔を背けて、大根を切り出した。しばらくはまな板に包丁の刃先があたる、過労やかな、心なごむ音が時を刻んでいた。日は暮れかけ、古い豆電球ひとつしか灯さぬ台所にはかまどの火がまばゆかった。


「神社には行きましたか」


 と、旭さまは翼に背を向けたまま尋ねられた。


「は、はい……」

「なにを見ました」

「なにをと言われても……その、鳥居と、祠と……」


 答え方が悪かったものか、旭さまは何もおっしゃらない。翼は困ってしまった。


「人魚の肉が祀られているようでした。その、箱に入ってて、見えませんでしたけど……」

「そうですか」

「あの、本当にあの中に入ってるんですか?人魚の肉……?」


 人魚を祀る巫女にこう尋ねたところで答えは自ずと知れているような気がしたけれど、翼はついそう訊いてしまった。背後で旭さまが立ち上がられる気配がした。


「……あなたならばどうしますか?」


 剃刀の刃を思わす、無駄のない旭さまのお言葉が、つかの間やさしくにごった気がした。翼は思わずそのお背中を振り仰いだ。


「えっ?」

「あなたならば人魚の肉を口にしますか?」


 伝説のことを言っているのだと、翼は心づいた。助けた礼に人魚の肉を渡されたとして、自分ならばそれを口にするかどうかと、旭さまは尋ねていらっしゃる……


 翼は首を振った。


「いいえ。あたしは永遠の命なんてほしくないですから」

「なぜです」

「だって……あたし一人で生きてたところで、さびしいですし。それに、家族や友達が先に死んでいくのを見るのは嫌です」

「家族や友人は新たに作れますよ」

「そうかもしれないけど。でも、あたしは、今の家族や友達がいちばん大事だから……」


 だって、ようやく巡り合えたのだもの、と翼は胸のなかでつぶやいた。つらい離別があった。悲しい終焉があった。でも、ようやくこうして巡り合えたのだ。だから、自分ひとりだけ生き延びるなんてあり得ない。大人になって、おばちゃんになって、おばあさんになる。その時までずっといっしょだ。


 と、その時、ちょうど今頃奈々の誕生日パーティーのために集まっている仲間のことが翼の頭に浮かんできた。きっと準備をしているのだろう。ああそうだ、舞と一緒に飾り付けをすることになっていたのに、それさえ忘れてきてしまった……あたし、何してるんだろう。いちばん大事といいながら、そのいちばん大事な人たちから離れて、たった一人でこんな島にいるなんて。あたしにとって本当に大事なものって、なんだったのだろう……?


「手が止まっていますよ、翼さん」


 旭さまの声で我に返る。けれども、胸に空いた穴に冷え冷えと染み入る喪失感は埋めようがなかった。ぱちぱちとはぜる竈の火の音も翼の心を到底あたため得ない。旭さまのお背中もまた、手を伸ばせば触れられるほど、縋れるほどに間近にあるというのに、さながら立像のように整然と屹立して、翼が求めている人のぬくもりには遠かった。さびしい島の、馴染みのない古い生活のなかにあって、まるでこの世界でたったひとりになってしまったかのように翼は感じていた。今宵はことさらにさびしい夜になりそうだった。




 それはかつては島の漁師たちが漁の道具をしまっておくのに使用していた倉であったのだが、漁をする者も年々減り、今ではいつ崩れてもおかしくないといったようすのこの木造の小屋に立ち入る島民はいない。島民の詮索好きは自分たちの知っているかぎりのこと、自分たちの生活の範囲内にとどまっているから、島の北端の浜辺に置き忘れられたようなこの小屋を、草木も眠る丑三つ時なぞに眺めている者もいなかった。もしそんなもの好きがいれば、この小屋から漏れる灯りに気づいたかもしれなかったが。


「ふんふんふふーん」


 島民の誰が想像するだろうか。小屋の内側に、宮殿の一室かと見紛うばかりの豪奢な一間が広がっているなどと。天井は実際の小屋の三倍ほども高く、天窓が取り付けられ、紺青の夜空に満天の星々と三日月とが回転している。床には豪奢な緋と金の絨毯が敷き詰められており、円形の壁に沿って並べられているのは見るだけでため息がでてしまいそうな調度品の数々。部屋の中央に置かれた寝台のまわりには帳がめぐらされ、寝台の傍らに立つ女の影が、帳の上にくっきりと濃く浮かび上がっている。すらりと伸びた脚、なにひとつ纏っていないように見えるほっそりとした胴、豊かな胸、長い髪、秀でた鼻と反り返った睫毛。影からして美しい妖しい女である。ただ、人間の女にはないものが見ゆる――頭から突き出た三角の耳がふたつ。


「ふっふーん。狭いところですけど、住めば都とはよく言ったものですねぇ」


 星たちのきらめきを受けて絹のようにきらめく褐色の肌、波打つ長い黒髪、裸身と見えたその身には白いレオタードを纏い、ひとつひとつの指を宝石で飾った素足で床を擦りつつ微笑んでいる。その女は華陽である。


「あたしの幻術とセンスを以ってすればこんなもんです!えへん!あとはもうちょっと、飾りを現地調達したかったんですけど、まっ、仕方ない。ここはしけたとこですもんね」


 赤瑪瑙あかめのうの瞳が見上げるのは、天窓を区切るように十字に渡された梁の中央部である。そこに飾られて柘榴のごとく集って実っているのは、よくよく見れば三人の島民の生首なのであった。


 華陽に微笑みがふいに歪んだ。


「あーつまんない!昔はもっと派手に人の腕でも足でも首でも斬り落としたりできたのに!」


 華陽は寝台に身を投げだして、しばし駄々っ子のように暴れまわっていたが、やがてぱっと起き上がると、ぐすん、と涙を拭きつつ、


「フン、いつか華陽ちゃん大帝国を築き上げたときには覚悟しててくださいよーだ、っと。まっ、泣いてても仕方ないですね。ちゃきちゃき仕事に入りますか。華陽ちゃん大帝国の設立が一日でも早まらんことを願いつつ。どれどれ……」


 華陽が腕を宙に伸べると、壁沿いに置かれていた書架よりひとりでに一冊の本が飛び出して、うるさいほど宝石に飾り立てられた華陽の手におさまった。華陽はまたもや仰向けに寝台の上に寝転んで、今度は爪先を天井に向けながら、本を紐解いた。


「むかーしむかし、ふかーい海の底に、うつくしい人魚のお姫さまがすんでいました。ある月の夜のことです。人魚姫が月の光を浴びながらうっとりと波間を漂っていると、一艘の船がこちらへ近づいてくるのが見え……って、これ、この島の伝説と違いますね?」


 気づいた華陽は朗読をやめて、ぱらぱらと絵本を放り出した。続いて本棚から飛び出してきたのは古い絵巻物である。華陽がうつぶせると、絵巻物はひとりでにくるくると広がっていく。粗末な絵の割に大きな黄ばんだ空白が川のように寝台を流れていった。


「……ふーん、人魚の肉を食べると永遠の若さと命を授かる、ですか。グロテスクですねぇ。魚も人間もたいして美味しくありませんしねぇ。あたしには別に必要ありませんけど、手土産に持ち帰るのも悪くないかもしれないですね。琥珀の回収に失敗した埋め合わせぐらいになってくれるといいんですけど。あの人、しばらくご機嫌ななめでしたからね。あー怖い怖い」


 華陽はぶるっと身を震わせると、早くも飽きたように絵巻を放り出して、絵本の方を再び取り上げた。


「こっちの方が絵はきれいですね。って、まあまあ、かわいそうなお姫さま。王子様にフラれて、海の泡になっちゃうなんて。まあ、本当に、かわいそう……」


 華陽の口の端が残酷に吊り上げる。


「どうですかぁ、翼さん?つらい恋をする貴女も、いっそ海の泡になってしまったら楽なんじゃないですか?」


 華陽が目を細めながら見上げる天窓に、もはや星影はない。そこには薄い布団にくるまって横たわり、不安げに暗闇に目を凝らしている翼の姿があった。華陽が眺めているうちに、翼は苦しそうに寝返りを打った。




 同じ頃、桜花市の自宅の寝室で、奈々がはっと目を覚ます。


「翼ちゃん……?!」

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