19-4 「一体なんであたしはここに」

 昼頃になって、人魚の神社を見てくるようにと旭さまから言いつけられた。黒い鳥居をくぐると、樹々に狭まれた鬱蒼とした小径こみちが続いていた。てっきりその先には拝殿があると思っていたのだが、翼を待っていたのは小さな石造りの祠のようなものであった。それは開閉式扉つきの小さな家のような形をしていて、開いた扉の奥に黒ずんだ香箱のようなものが据えられており、その手前に供え物らしい酒やら蜜柑やらが慎ましく置かれている。翼は戸惑い、祠の横に掲げられた古い木の立て札を見た。薄れた墨の字で、そこにはごく簡略にこう書いてあった。



 人魚の肉を持ち去るべからず

 祟りあり!!



 それではこの箱のなかに人魚の肉が?翼は新たな当惑を覚えて、香箱を見つめた。翼のなかで人魚といえば、あの絵本や映画で見る人魚姫のイメージだ。下半身こそ魚ではあるが上半身は美しい人間の乙女で、美しい歌声を持ち、長い髪をなびかせ、魚たちと戯れ合っている。幼いころは人魚になって自由に海を泳いでみたいと半ば本気で願っていたものだ。その人魚の肉というのは……翼は身震いする。翼にとって、それは人肉に等しいのだった。


「とある娘が人魚を憐れに思い、海へ逃がしてやったのだそうです。人魚はその礼として自らの肉を一切れ娘に与えて……」


 旭さまのお声がよみがえる。娘は肉を口にせず、この場所に祀ったということだろうか。以前に授業で習った竹取物語のお話のようだ。かぐや姫からもらった不死の薬を、帝も口にせずに燃やしてしまったという。


 翼はひとまず祠の前で手を合わせた。島の人たちは一体どんな人魚を想像しているのだろう。一体どんな人魚が明日の夜、この島を訪うのだろうと考えながら。今朝、岩場の上にいた翼が寄り来るものとして予覚したのも、この人魚なのであろうか。人魚は海神の国から近づきつつある……?


 旭さまに命じられたからにはせめてなにかしらの発見をしようかと、翼は神社を回ってみた。しかし、境内と呼ぶのも憚られるほどささやかな土地のうちに他に見るべきものはないように思われた。祠と立て札以外にはまことに何一つないのである。十五分ほど我慢して居座ってみたが、これ以上の収穫はないものと諦め、翼は帰り道を辿りはじめた。鬱蒼と茂る樹々の向こうに、翼は海鳴りを聴いた。


(一体なんであたしはここにいるんだろう……)


 翼はふと下る山路で足をとめた。


(あたしは何してるの?この三日間、お稽古もせず、旭さまに命令されることを、まったくわけがわかんないままやって、それも結局なんにもなってない……!あたしはなんのためにここに来たの?人魚を迎えにきたの?そうじゃないでしょう!これじゃあダメ!強くなれない、あたし……あたし、強くなるためにここに来たのに……!)


 琥珀にとどめをさせなかった夜のことを、翼はいまだに夢に見る。荒ぶる獣の巨躯の前に、足は地をまともに踏みかねていた。なによりも耐えがたいのは琥珀が去り、京姫が琥珀を仕留めたと知るまでのその間であった。誰も翼を責めなかった。むしろ茫然自失の翼を皆は慰めてくれた。ただひとり、柏木を除いては――柏木は決して何を言うでもなかったが冷ややかな沈黙のうちに、翼への軽蔑を示していたように思う。柏木の態度と、皆のやさしさと、そのどちらが翼にはより苦しかったであろうか。そして思い出すのはあの夜ばかりではない。もっと遠く、もっと残忍な夜の記憶が、今も翼を凍りつかせる。紅の月を背に負って青龍を見下ろしていた漆の冷笑――


(強くならなくちゃいけないんだ。強くならなくちゃ。強くならなかったらまた敗ける……大事なものを失ってしまう。前世みたいに)


 弱かったから失った。京姫も、四神の仲間たちも、母も、京も、主上おかみも。なによりも……



 桐蔭とういんの宮さま……



 葉叢はむらの裏で重なったおもかげに翼ははっと息を呑んだ。急いで幻影を振り払い、その場に立ち尽くしていると、戦慄が地より這いのぼってくるのを覚えた。冷たい血が巡っている。これまでもそうではないかと疑ってみたことはあったけれど、やはりそうなのだ。なんでもなかった時にわかったならば嬉しかったかもしれない。なぜよりによってこんな時に……!


(またあたしは失うかもしれない……!)


 翼は両手で顔を覆った。


(ううん、弱いままだったら、このままだったら絶対に失う。嫌……!強くならなくちゃ。早く、早く、早く……!)


 顔を覆った両手を払い、翼は山路を駆け下りはじめる。


(旭さまに言わなくちゃ。午後の便で帰りますって。ここにいてもあたし、何も学べないから……!ああ、わかった。おじいちゃんはきっと勘違いしたんだ。あたしが沈んでいるのを見て、こういう自然の豊かなところでゆっくりすればいいんだって。でもそうじゃないの、おじいちゃん。あたし、強くなりたいの……!みんなを守るために。そして今度こそ……)


 木漏れ日が瞼を刺したとき、翼は駆ける足を止めた。ただ狂おしいまでの焦燥に駆られて走っていたせいか、さほどの距離をおりてきたわけでもないのに息は荒かった。けれども翼は体の疲れに頓着する様子はない。さざめく日差しのなかで瞳をみひらいて、翼はそこになにを眺めていたのだろうか。

 

――朝日が斑を落としていた横顔、髪、制服の肩。後ろを歩いている翼にはその話し声は遠く、ただ楽しげな二人の笑い声が日の光とともにさざめいていた。楽しげな二人――恭弥と、美香と。



 日だまりのなかで翼はうなだれた。ダメだ、あたしはまだ桜花市には帰れない。現実に立ち向かうだけの勇気があたしにはない。もし今恭弥を失ったら(それはあたしの恐れている失い方とはまた違うけれど)、あたしは二度度立ち上がれなくなる。だって、だって……あたしはすごく弱いから。


 山のどこかでからすが鳴いている。そのさらに遠くで、寄せ来る波が唸っていた。




「えっ、翼、出かけちゃったんですか?」


 十二月三十日、午後。一緒に白崎邸で開かれる奈々の誕生日パーティの準備をしようと、青木家の玄関先に立った舞は、目をまん丸くして言った。


「いつ帰ってくるんですか?」

「それがはっきりしないのよね。ただ遊びにいったんじゃなくて、修行に行ったとかで」


 翼の母の返答に、「修行?!」とますます舞は目を丸くする。


「どこに行ったんですか?」

「えーっとね、なんだっけ……なんとか島。南の方の島だったと思うけど。おじいちゃんが連れてったから覚えてると思うけど。おじいちゃーん!!」


 と、翼の母はエプロンをかけた身をねじって、家のなかに向かって呼びかけた。元警察官だけあって威勢がいい。ほどなくして、廊下のむこうから着物姿の老人がとぼとぼと現れた。翼の祖父は以前にも会ったことがあるが、なんだか今日は以前より元気がない気がする。翼のことが気にかかってなければ、舞も心配したことだろう。


「ねっ、おじいちゃん、翼が行ってる島、どこだっけ?」


 「海原島だが」ともごもごと返事がある。


「あっ、海原島だ。知ってる、舞ちゃん?」

「い、いいえ……でも、なんでわざわざその島に?」

「なんだっけ?おじいちゃんの古い知り合いがいるんでしょ?剣道の?そうだよね、おじいちゃん?」

「う、うん……」

「そうなんですかー」

「昨日電話したときは元気そうだったわよ。しっかし、やーね、あいつも。舞ちゃんたちに黙っていくなんてさ。わざわざ来てくれたのにごめんね、舞ちゃん」


 帰り際、見送ってくれた翼の祖父の態度になにか違和感を覚えた気がしたけれども、舞は去った。時は金なり。師走とあっては、ことに誕生日パーティの当日とあってはなおさらだ。急いで白崎邸へと向かおう。飾りつけは舞と左大臣が担当することになっていたし、お料理も手伝わなければならないし。


「いやはや、翼殿は立派ですな」


 自転車にひょいと飛び乗った舞のリュックから顔を突き出して、左大臣がつぶやく。


「本当だね。すごいなぁ、修行だなんて。せっかくの冬休みなのに」

「姫さまにも少しは見習っていただきたいものですな」

「えー?!だ、だって、もうすぐお正月だよ?!お雑煮とかお節とか食べたいもん!」

「……姫さまの取り柄は食欲だけですかな」


(……がんばってね、翼!)


 遠い桜花市からはなにもしてあげられないけれど、気持ちだけを届けたい。薄氷のように透き通った日差しをきらきらと額に浴びて、舞は強くペダルを踏み込んだ。


 少女は知らない――舞を見送ったあと、しょぼしょぼと寝室に戻った翼の祖父が、大掃除中らしく八畳の和室いっぱいに散らばった段ボールの箱を紐解いては浮かない顔つきをしていることを。


「ちがう……これもちがう……」


 翼の祖父が段ボール箱から選りだしているのは古い写真帳である。それは幼少期、少年時代、青春時代、就職、結婚前後など、時代が時代だけに数は少ないながらに、翼の祖父の来し方を綴ったものなのである。だが、いくら頁を捲ってみてもやはり見当たらない。


(はて、どこで知り合ったのだ、あの女性ひとに)


 以前の切れを失い悄然としている孫の姿を見た時、ふっとあの女性の顔が浮かんだのだ。あの女性ならばなんとかしてくれるだろう、海原島へ行かなければ、ただそれだけが頭にあった。気がつけば、大事な翼をひとり残して東京へ戻ってきていた。だが、どこにも見当たらないのだ、旭なる女の姿は。どの写真にも。恐らくは写真には撮られなかった人生の片隅にさえも。


(ましてや海原島など今まで一度も訪ねたことがないというに、なぜあの時はまともに調べもせずに行き方がわかったのだろう。おかしい……まるであの島に、あの女性に、呼ばれていたようだ。無論、わしじゃない。翼がだ。ああ、なにかわしはとんでもないことをしでかしたんじゃないだろうか)


「まあおじいさん、何ぼんやりしてるんですかっ!私がこんなにせわしなくしているのに、まったくもう……!」


 大掃除のせいでいつになく気が立っている妻に叱られて、のろのろと写真帳を閉じて立ち上がる。一刻も早く島に翼を迎えにいかなければいけないのに、いざそれを妻に伝えようとすると舌がまわらなくなってくるのはなぜだろう。そのうちに、だんだんと頭のなかが痺れてきて、なにを心配していたのかさえもわからなくなってくるような気がしてきた。



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