19-3 「人魚を祀っています」

 南の島の朝は桜花市より遅い。まだ日の昇らぬうちに翼は目を覚ます。騒がしい都会の中心というわけではないけれども街中で育った少女には、年々住人が減りつつあるこの離島の、何百年と変わらぬ沈黙を守りきっている暁が恐ろしくも思われた。人が立てる音はことりともしない。ただ海鳴りだけがある。


 目覚めてからも翼は薄い布団のなかで、身じろぎもせず、ただ瞳をじっと薄闇に凝らしている。そうして考えるのは遠い故郷の町にいる家族のことや友人のことだった。舞、奈々さん、ルカさん、玲子さん、左大臣、柏木さん――みんな元気にしているのかな。今日は奈々さんのお誕生日パーティーだったはず。本当に、参加できなくて心残りだけれど。でも、不甲斐ない自分だから。


 お母さん、お父さん、空お姉ちゃん、光お姉ちゃん、おばあちゃん、おじいちゃん――昨日電話したときはみんな元気そうだった。おじいちゃんはどこか心配そうだったけれど。でも、おじいちゃんがここに連れてきてくれたんじゃない。あたしが全然だめだってこと、おじいちゃんだけは気づいてくれてたんだよね……ごめんね。


 その時、遠からぬ場所で一番鶏が鳴いた。翼はついに起き出さなければならない時刻が来たことを知った。それがこの島にいる間の掟であった。


 海原島うなばらじまは人口百名にも満たない小さな島である。桜花町からは飛行機と船を乗り継いで半日ほどかかり、港に着く船は一日二便。それも小さな船であるから冬のこの時期は揺れに揺れる。翼は乗り物酔いする性質でなかったからよかったものの、そうでなかったらきっと大惨事になっていたはずだ。祖父は船を降りたころには真っ青な顔をしていた。


 この数か月、伸び悩む弟子を、思い悩む可愛い孫娘を見かねて、祖父がここに連れてきてくれた。この遠い離島には祖父の古い知人にあたる女性が暮らしているのだ。この女性ひとのもとで修業をしなさいというのが祖父の助言であったが、まさかひとりで島に置いていかれるなんて翼は思ってもみなかった。どうやら祖父も同じであったようなのだが。


「はるばる海原島ここへ来たからには生半可なことでは困ります。貴方がそばにいてはそれが翼さんの甘えにつながるのです。午後の便でお帰りください。今この時から修行は始まっているのですよ」


 当惑する祖父に、老女は灯りをつけない部屋の奥から冷ややかに言いのけた。それは決して反論を許さぬ声だった。


 夜が少しずつ薄まりゆく。朝の滴りを早くも受けて黒い木末こぬれは立ち騒いでいるが、足元に寄せる波の音にかき消されてしまう。波の音を踏みしめるようにして、翼はまだ頼りない足取りで岩場をのぼっていく。太平洋に突き出す崖の上へと続く急峻な岩場には手すりなどない。ただ、古人いにしえびとの足裏に幾度も踏まれ擦られたあとが、心持ち平たくなっているばかりである。今からほんの数十年前まで、島の女たちは、大人から子供まで、水を汲むためにこの岩場を素足でのぼっていたのだと旭さまは言っていた。


(でも、なんでおじいちゃんはあたしをあさひさまのところに預けたんだろう……)


 旭さま、というのは島の者たちが呼ぶのを聞いて翼が勝手に呼びはじめた名であった。特段なんと呼べとも言われていない。


 最初は旭さまに剣術を教えてもらえるものだと思っていた(そのつもりで奈々に手紙を書いた)。だが、この三日間でわかったことは、旭さまは剣道のことはからきし知らないということであり、旭さまの方もそれを気に留めてはいないということであった。


(剣道を教えてくれないんだとすれば、旭さまはあたしに何を教えてくれるっていうの?)


 剣術のことはなにひとつ教えられない旭さまは、雑用としか思えぬことばかり翼に命じた。そのひとつに、朝の水汲みがあった。水に乏しいこの島で、唯一清水が湧き出でているのが、旭さまの家の裏手にある片鰭岳かたひれだけの頂である。水道がすでに整備された今となっては、山上まではるばる水を汲みにいく必要もないのだが、旭さまは毎朝の水垢離みずごりにはこの清水がよいのだといって、翼に汲みにいかせるのだった。それにしても、翼がいない時は一体どうしていたのやら。一緒に暮らしている者もいないらしいが、まさか自ら赴くのだろうか。あの御歳で?


 ちょうど半ばまで来たというところで翼は足を止めた。南の島といえどもさすがに冬の夜だけあって、稽古着一枚では震えるほどに寒い。岩肌に触れる右手は感覚を失うほどに冷え切っているが、この石の壁に手を突いていなければ一歩歩み出すことさえ恐ろしい。左手に持つ桶の差しかかる先は、くうであり、海であった。


(あたしは……)


 翼は左肩に縋るようにして東の海を見た。夜明けは刻々と近づいている。まるで胎動を透かし見るように、分厚くわだかまった雲の向こうの朝を翼は確かに見た。しかし、水平線は黒くけぶり、海原はいまだ薄墨のような灰色で、海鳥の影ひとつ見当たらない。


 舞の誕生日にみんなで行った夏の海が、翼にとってもっとも新しい海の思い出だった。この海は果たしてあの輝かしい海と一続きなのであろうか。唸りとどろく海――まるで巨大な生き物のように、海は波間に翼を引き入れようと陰湿な目をじっとこちらに向けているように思われる。


(あたしなんでこんなところに……たったひとりで……)


 海から目を背けた翼は、また引き戻されるように海の方に視線を遣った。先の恐ろしい想像がまだ胸にまとわりついていたにも関わらず。翼を呼んだのは海ではなかった。なにかまた別のものであった。そう、なにか、不可解な、寄り来るもの……




「お早う」


 ようよう日が差しはじめたころ、翼は老女と今日最初の対面をした。障子紙を透かして入るわずかな陽光のほか、北に面した古い和室の、一層奥まったところにいる老女の姿を照らし出すものはない。


「おはようございます」


 翼は畳の上に深くいやした。すべての礼儀作法をやかましく取り決める祖父と違って、老女は細かいことをとやかく言おうとしない。翼の一挙一動はぎこちなくなる。次の所作、次の言葉にいちいち迷うためである。


「朝の務めご苦労でした。今日の朝目は如何いかがです」


 朝目というのは、この島ではよく言う言葉で、朝起きてその日最初に見たものを言うらしい。そんなことを言ったら天井か布団かということになる気がするのだが、もう少しひろく捉えて、最初にふと目にとまって印象深く感じたもののことでもよいようだった。口数少ない老女はなぜか朝目のことだけは尋ねるのを忘れない。翼はしばし考えてから口を開いた。


「今朝は水を汲んで、山道を通って帰りました。その、つまり、いつもの崖の方の石段からではなくて。その時、山のなかで小さな黒い鳥居を見つけました」

「ほう、あれを見つけましたか」


 老女は笑いもせずにつぶやいた。そこからの沈黙に耐えかねて、翼はまた口を開いた。


「そ、そうなんですっ……!あの鳥居がとても印象的で……なんていうのか、なんかとても不思議な、神秘的な感じがして。あれは神社ですか?どんな神さまを祀っているんですか?」

「神さまではありません」

「では……」

「人魚を祀っています」


 水垢離を済ませたせいか、そのお声までもが冴え冴えとしていた。翼は思わず旭さまのお顔を仰ぎ見た。乏しい光線のなかに正座をしている老女の歳はいくらとも知れない。祖父の古い知人であるということから推して七十ほどであろうか。象牙色の皮膚にはやはりそれだけの年輪が刻まれているように見えるけれども、まっすぐに伸びた背と眼差しの鋭さが少しも衰えを感じさせない。清浄な雪のような白さを閃かせている尼頭巾のうちからその切れ長の瞳は、楕円型の眼鏡を透かして翼を射る。


「人魚?」

「おや、お祖父さまに聞きませんでしたか」

「えっと、特になにも……」


 尼は別に呆れるようすもなく、水泡のような瑠璃色の数珠持つ手を法衣の膝の上に据えなおした。


「この海原島は人魚の島といわれています。伝説では今から八百年ほど前、人魚がこの島に流れ着いたのだとか。人魚の肉を口にすると、その者は永遠の命を授かるといいます。島の者たちはこの人魚を然るべきお方に献上しようと人魚を生け捕りにしておきましたが、とある娘が人魚を憐れに思い、海へ逃がしてやったのだそうです。人魚はその礼として自らの肉を一切れ娘に与えてこう言いました。私は水底にある海神わたつみの国の者であるから、そう繁くは島にはやってこられない。但し、八年に一度、一年の最後の夜には必ず来ると約束する。そして、もしこの島の者たちが私を捕らえようとせず、私を歓迎して捧げものをするのであれば、私はその見返りとしてこの島に清らかな水と豊かな食べ物をもたらそう、と。以来、片鰭山の頂きからは清水が湧き、島は豊漁と豊作に恵まれるようになったとのこと。この伝説から、島では人魚を祀るようになったのです」


 旭さまがこれほど饒舌になるのを、翼は初めて見た。淀みない語り口である。唖然としている翼を、旭さまはまっすぐに見据えたまま、まったくなにげない調子で、


「今年はその八年に一度の年に当たります」


 とそう言った。

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