第十九話 人魚の島
19-1 春の記憶
玉藻国の北に位置する月修院に住む人々にとってはあまりにも長く過酷な冬が終わり、春となった。その年は月宮参りの年にあたっており、大人の僧侶や巫女たちは日々の務めのあいだにも準備に忙しなかった。子供たちはいつにない大人たちの忙しなさを前に、誰もがみな落ち着かなさげなようすであり、この冬に連れてこられたばかりの少女たちなど、ほとんど駆けるようにして
そのなかで、八重藤と藤尾とは変わらぬ日々を送っているように見えた。二人が連れ立ってしずしずと歩いていく光景はもはや珍しくもなんともなくなっていたが、たおやかで誰からも好かれる八重藤が、がさつで厄介者の藤尾をつきっきりで世話している光景は、奇妙とまではいえずともふしぎなものとして捉えられていたのである。まったく連れてこられたばかりの藤尾ときたら、物言いも態度もつっけんどんで身なりにもかまおうともせず、そのくせ野生の勘とでもいうのだろうか、妙に頭だけは切れるため、先輩の巫女たちはすっかりもてあまし、また同時に恐れてもいたのである。それでも八重藤ひとりは辛抱強く藤尾を諭しつづけた。そして、どれだけうるさがられようと一日中つきまとい、湯に浸からせ、髪を梳り、手をとって筆を持たせ、祈りを覚えさせ、実の姉のように気遣って倦むことを知らなかった――その気高くやさしい心が、一瞬であれ、八重藤に憧れを抱いた少女に通じないことがあるだろうか?
「八重藤はりっぱね。あの娘ときたら、まるで野良猫みたいだったもの。あんな娘をよく手なずけられたものだわ」
「そうね。それに落ち着いてみると、藤尾もなかなかきれいな娘よ。この冬で髪も背もどれだけ伸びたか知れないわ」
「でも、困ったわね。あの子、八重藤と一瞬たりとも離れていられないのだもの……」
そんな噂を耳にするたびに、八重藤は口元を緩ませながらもふと考え込んでしまう。他の人の目にはどう見えるのか知らないけれど、一瞬たりとも離れていられないのは藤尾だけかしら、と。
いいえ、きっとわたくしだって――
「ねぇ八重藤!」
果樹の枝に鋏を伸べたまま立ち尽くしていた八重藤は、はっと我に返った。その一瞬の動揺のために、重なる樹木の葉にさえぎられていた陽が翡翠の瞳を鋭く射た。
それは月宮参りのまさにその日であった。京からはるばるおはしまし給うた帝と京姫とは、まさに今、中庭に設けられた宴の席で月修院さまのもてなしを受けていらっしゃるはずであった。八重藤もお出迎えの際に遠く帝のご竜顔を仰ぎ見たが、なんだか畏れ多い気がして長くは直視していられなかった。ただ、四十という御年を目の前にいよいよ威に満ちた立ち姿が印象に残っている。それにくらべて、京姫は帝よりもずっと若い女性ではあったものの、よほど平凡で特色のない女性のように思われた。青白い
それはともあれ……
「八重藤!」
八重藤はゆっくりと鋏をおろして、名を呼ぶ人を振り返った。陽に差されたために少女の顔のあたりははじめ白くぼやけていたが、滲みだすようにして次第にその輪郭が、赤らんだ頬が、きらめく瞳が現れる。見透かせぬほどに深い、神秘の瞳だった。月修院さまの僧衣よりさらに深い――紫紺色はこの国では
「どうかして、藤尾?」
「八重藤きて!すごいものを見つけたのよ!」
藤尾の瞳はいまや神秘を忘れ、昂奮に輝いている。藤尾は新米の少女たちの役割である
「だめよ、勝手に寮を抜け出したら」
しかし、八重藤がなにか答えるよりはやく藤尾は駆けだした。八重藤の手を取って。その行き先がどうも望ましくない方向であることを見て取り、八重藤の足は渋った。しかし、藤尾はまるで気にするようすはない。
「はやくはやく!みんなに見つかったら大変だもの!」
屈託のない笑顔で振り返った拍子に、衿のうちに含んでいた藤尾の長い髪が風をはらんでこぼれだし、八重藤の頬をくすぐった。それが、口にする言葉とはうらはらに八重藤の口元をゆるませる。
「どうして貴女はいつもそうやって……」
「八重藤にだけ教えてあげる。ねぇ、絶対内緒にしてね?ほら、急いで!」
鋏は重みのままに、白い指から逃れて土の上に落ちる……
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