18-4 十二月二十五日

 本当に、今日という日は夢のように過ぎていった。見るものも触れるものも聴くものも、まるで相争って舞に触れるように鮮明に迫り来るのに、一方ではすべてが夢のようにも思われる。これは本当に現実なのかと疑いたくなる。明日、今日という日を思い出せるか不安になる――それはあまりにも幸せすぎるからなのだと知るのには、舞はまだ幼すぎた。


「あーらーのーのはーてに、ゆうーひーはおちーて」


 遊園地で繰り返し流れていた曲を、そっと口ずさむ。幼稚園でみんなで歌ったクリスマスキャロルの、そこから先の歌詞を思い出せなくて、あとはあいまいな鼻歌だけになる。ふと街灯にとりこぼされた薄闇から目を上げると、まさしく歌詞のように、桜花町の家並みのむこうに夕日が消えゆこうとするところであった。


「あっ……」


 思わず足を止めた舞の隣で、彼も立ち止まる。その最後の瞬間、屋根と屋根の群れのはざまで、太陽はひときわ強く燃え立った。その煌めきの強さたるや、その燃え立つところを起点にして緋色の扇の羽のように滲み出す数条の光が、すでに夜の喪に伏していた家々の屋根を焼き尽くすかと思われたほどであった。しかし、陽光は海のようにゆらめきながら吸い込まれて西の果てに消えていった。今日もいつもと変わらぬ日没が訪れたのだ。


 少女と少年は魅入られたようにその様子を眺めていた。そして、輝く緋色の帯であった西の空が、崇め追いすがるべきものを失って、次第に呆けたような青みを受け容れつつあるのを見ると、ようやくものの心を得たようにはっとして、顔を見合わせた。あわてて目を逸らしあった二人は、競い合うかのように急いで歩きだした。


 沈黙のまま、二人は京野家の前に着いた。なじみ深い我が家の門を背に頼もしくも冷たく感じつつ、舞はようやく来たるべき時が来たことを知った。顔を上げた舞は、宵闇のなかでも司の瞳を取りこぼさずに見つけることができた。


「……結城君」


 絞りだした声は意外にもしっかりしていた。少なくとも、ジェットコースターであれほど叫んだわりには。


「今日はありがとう」

「……ああ」

「すっごく楽しかった、ほんとうに」


 コーヒーカップを回し過ぎて怒られたことも。お化け屋敷でしがみついた拍子に司を気絶させかけたことも。


「結城君と一緒に行けてよかった」


 観覧車で見た景色。共に歩いたイルミネーションの道。帰りの電車の揺れ。思わずよろめいた体を咄嗟に抱き止めてくれたあたたかな手。


「……私ね、結城君のことが好き」


 ずっと伝えたかったこの言葉。好き、好き、好き――胸のなかに何度も繰り返される。


 司は目を伏せた。それが何を意味するのか、舞はもはや占おうともしなかった。なんだかそんな彼の仕草が、やけに恭順に、敬虔に、思われただけだった。舞はその時ほど司をいとおしく思ったことはなかったように思われた。こらえきれずに、舞は司の背に触れた。肩に触れた。胸に触れた。冷たい頬と頬を寄せて、舞はほとばしる想いを叫んだ。


「結城君、大好き……!」


 ああ!この瞬間世界が終わってしまったとしても、少しも惜しくない。だって想いを伝えられたから。結城君のそばにいるから。これ以上近づけないほど――もしかしたら司が望んでいないほどに、ゆえにもう二度とはあり得ないほどに、そばに。


「京野」


 チェスターコートの肩の上で聴く声は震えている。


「……はい」

「僕は……僕はお前のことが嫌いだ」


 知ってたよ、とは言い返せずにコートの袖の二の腕のあたりをぎゅっと掴む。知っていたからつらくないのだろうか。それとも、もっと先の言葉を待っているから……?


「お前はしつこく僕に付きまとおうとする。どれだけ突き放しても、閉じこもっても、お前だけは僕を離れようとしない。だから嫌いだ。お前を見ると、心がざわついて落ち着かないのに……初めて会った時からずっとそうだった。前世のせいなのかもしれない。以前の結城司のせいなのかもしれない。だが、いずれにしても僕には関係のないことだ。の想いに人生を振り回されるなんて、うんざりだ。だが…………」


 かじかんだ指が、不器用に、もう少しだけ近くに舞を抱き寄せた。


「それでも、そばにいてほしいと思ってる……だめか?」


 それは、こんなにもそばにいなければ聴き取れないほどのかすかな声だった。不安につまずいた言葉の終わりは、舞の右肩のあたりにうずもれてしまったようだった。


 ……舞は瞳いっぱいに光が溢れだすのを覚えた。街灯の光も、見慣れた向かいの家の窓の光も、ささやかな星影も、背中に浴びている我が家の灯りも。光は集い、翡翠の瞳の上できらめく結晶となり、舞がそっと瞳を閉じるとともにひとつの形を得てあたたかに滲みだした。微笑む舞の唇が濡れた。


「だめじゃないよ。大丈夫……ずっとそばにいるから」


 結城君大好き、ともう一度ささやくと、「ああ」という低い返事があり、それからしばしの逡巡のあとで、舞はもう少しだけ司のそばに近づくことができた気がした。









「貴女の瞳が好き。貴女の紫紺色の瞳、まるで吸い込まれるみたい…………藤尾、わたくしたち、ずっと一緒よ」





 わたしもよ。大好き、大好きなの。愛しているわ、八重藤。お願い、ずっとそばにいて。わたしの手を離さないでね――




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