18-3 「ずっと見守ってくれてたんだよね」
「
「父親に顧みられず、愛情に飢えた孤独な少年時代……それがかの男を創りあげたと?」
「わたくしはそうは思いたくありませんな。そうした少年時代が、生まれ持った歪みを助長したという程度に」
「私も同感だ。しかし、やはりわからないな。楷と二条家の謀反の関わりが」
カシミアのセーターに身を包んだルカは椅子に背をもたせかけながら、長い指でペンをみごとに一回転させた。
「楷が無関係だなんてことがあり得るか?」
「楷が無関係と仰いますか」
丸テーブルの上に胡坐をかいた左大臣は、釦の目の間に皺を寄せていた。
「楷に無関係、ではなく?」
ルカは小さく首を振りながらあいまいに微笑んだ。
「つまり楷が生家の謀反に影響を受けたんだと言いたいわけだな。確かに楷はあの時京にいなかったさ。だからこそ怪しいんだ。わかるかい、左大臣?」
「なるほど、忘れておりました。漆のやつは月修院にいながらにして京を引っ掻き回したのでしたな」
そういうことさ、とうなずくルカ。
「舞の言った言葉を覚えているだろう。京で対面したとき、漆は姫にこう言った――『私はこの国を覆す』と。二条家の謀反はあいつの計画のはじまりに過ぎなかったのかもしれない。雪崩の前の雪玉のような小さな兆しさ」
そしてその雪玉ゆえに白虎の一族は皆殺しにされたのだ。その事実に左大臣は戦慄を覚えたように黙した。白虎の一族、一条家の人々は二条家の残党によって一夜のうちに惨殺され、白虎だけが悪夢のような夜を生き延びた。その母は死してなお衣の下に娘を庇い続けた。
「楷が漆となった原因についてはどう思う?」
ルカは指先でまたペンを回した。
「私は漆の姿を直接見ていないが……奈々の絵を見るかぎり、漆の容姿は我々が知っている『月修院さま』とは大きく変わっている」
「それを申せば人格そのものが変わっております。まったく、香苗殿の日記がなければ信じられませぬ。わたくしなぞ、いまだ半信半疑でございますぞ」
「私だって奈々の絵がなければ信じていなかったさ」
「わたくしの記憶が正しければ、最後の月宮参りの折に楷は数えで四十二。しかし、漆の見た目はどう見ても二十代。それに楷はああのように凍りつくような美貌の持ち主ではありませんでしたな」
「ああ。なにより決定的にちがうのは瞳の色だ。楷の瞳の色は灰色だった。だが、漆は紫紺色だ。あいつは単に若返っただけではない。というよりは、奴の場合……いや…………」
じっとうつむいて考え込んでいたルカは、左大臣の怪訝そうな目を受けても何かを語ろうとはしなかった。思索はただルカの瞳のなかでのみ深まっていく。
ふと、ルカは椅子ごと体を窓の方へと向けた。差し込む冬の日差しがクリムゾン色の絨毯に輝く金糸を縫い込ませている。その上に影を落として、絨毯の色に負けぬほど燃え立つ髪を結い上げた少女が佇んでいる。玲子は先ほどからずっとルカと左大臣の会話に加わっていなかった。
しかたないさ、こんな日だもの。ルカのまなざしはそんなやさしい諦めを浮かべていた。十二月二十五日――今日はクリスマスだ。こんな日ぐらいは休息が必要なはずだ、たとえ四神であっても。
「玲子、今日はもう終わりにしよう。昼食のあと解散だ」
今夜はきっと最愛の父と水入らずで過ごすはずの玲子のために、ルカはそう提案した。きっと玲子もそれを思って夢心地であるのだろうと。しかし、車椅子のわずかな動きで振り向いた玲子はルカの言葉のあともなお、なにか目覚めきれないような瞳をしていた。瞬きがいつもよりほんの少し緩慢であった。
「……えぇ」
緩慢な瞬きのうちの最後の動きが、窓外の光を撫でた。睫毛に灯された光のかけらのうちに、玲子はなにを見つめていたのだろうか。
玲子が見つめていたもの――それはある日の午後、白崎邸の庭を柏木も連れずに巡っていた時のことであった。噴水の前で車椅子を停めた。いつの間にか車椅子の後ろに歩み寄っていて、急に両肩に触れた手。見上げた先にあった少女の顔。少女は微笑んでさえいなかった。少女の翡翠の瞳は、まるで逃さまいとでもするように、懸命に、玲子を見下ろしていたしかし、その真摯さをうらぎるように、風にそよいだ髪が寒さのために薄桃色になった頬にかかる、そのさまが少女をあどけなく見せていた。
「……玲子さん」
誰を憚るわけでもあるまい。でもきっと玲子だけに聞かせたくて、少女はささやき声になったのだ。
「手紙、読みました」
「……そう」
噴き上げていた水が止まると、意識できぬほどにささやかに思われた水音がさまざまな音を掻き消していたことに気がつく。たとえば振り返り見上げている、少女の呼吸の音だとか。こんな沈黙は玲子には恐ろしいようにも思われた。早く噴水が湧き出ればよいのに。
「ぜんぶ教えてくれて、ありがとうございました。それから……ごめんなさい」
舞の瞳が潤みだす。目を逸らした先まで同じ輝きが追いかけてときにはどうすればよいのだろう。芝生の色までもが金色の陽を受けて燃えている午後。
「何も知らなかったの、私。玲子さんが私と司を守ってくれたのに。変身もできなくなって、歩けなくなって、それでも私に何も言わないで。私、玲子さんの気持ちも知らないでひどいことたくさん言ったのに。それでも、玲子さんは一緒に戦ってくれた……」
「……私は朱雀だから」
頬にかかる冷たい
「あなたを守るのは当たり前のこと。たとえこの命を失ったとしても……」
「でも司まで助けてくれたじゃない」
舞はよろめくのを堪えようとするように、玲子の肩を痛いほどにぎゅっと掴んだ。
「司のことは守らなくてもよかったでしょ?だってそれは朱雀の仕事じゃないもの」
「そうよ。だから助けなかったわ。貴女の幼馴染の結城司は消えてしまった」
「でも会わせてくれたじゃない……!違う人生を歩んでいても、離れ離れの時があっても、結城司は結城司だもん!司の魂は同じだよ。今も前も変わらない……だから、私は司のこと、また好きになったんです…………」
でも、それははたして舞を幸せにしたのだろうか。この恋はあなたを疲れさせ、苦しませただけではなかったのだろうか。涙に震える舞の声だけではとても見極めることはできずに芝生の色から顔を上げようとした玲子の視界は、桜花中学のセーラー服の胸元に塞がれた。
「ずっと見守ってくれてたんだよね、私のこと。私が玲子さんのことを知る前から、ずっと……」
頭の上で鼻をすする音がする。
玲子は思わずため息をつきかけた。それは幸福な午後のはずであった。顔をわずかにもたげて、舞の肩越しに見つめる冬の景色の完璧な美しさこそ、まさに幸福の象徴であるかのように思われた。冷気のためにいっそう先鋭さを増した陽光は、花眠るアーチのこまやかな葉の形を作り、微睡む樹々の枝先を朝露のように輝かせ、空をなにか痛いほどに澄みわたらせていた。
冬の吐息が右耳に触れている火照った小さな頬をしっとりと冷ましていく。頬から立ちのぼる温度が、凍えかけた耳朶を溶かす。
「……今度のクリスマスにね、結城君と出かけることになりました」
玲子の頬に影を落として、舞はようやく微笑みながら、まだ少し涙で濁った声でそう言った。
「私ね、その時ちゃんと想いを伝えるつもりです。このことを、玲子さんに誰より先に言いたかったの……」
……きっと想いは伝わるだろう。孤独に震えていた魂は癒される。古き罪は贖われ、引き裂かれた魂は結ばれる。月の女神の森で出会った二人の前に新たな道が横たわっている。その果てになにがあるのかはまだわからない。はるか昔、この世を去った星々の目にさえ届かぬ場所へと二人は至りつくのかもしれない。まだ誰も行きついたことのない
「幸せに、なって…………」
ふしぎそうにこちらをうかがうルカのまなざしに瞼で触れて、玲子はいつになく口元を緩ませて、車椅子の車輪をクリムゾンの絨毯の上に滑らせた。邸のどこかからルカの母が聴いているらしいクリスマスキャロルが流れてくる――祝福を今宵、この美しい世界に。
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