18-2 「……一緒に行くか?」

「京野」


 桜花公園のベンチで鼻歌を歌いながら噴水を眺めていた舞は、待ち焦がれていた声にぱっと顔を上げた。中央の噴水広場へと続く階段を彼が下りてくる。司はチェックにグレー地のチェスターコートに、ネイビーのセーターの胸元から白いシャツの襟元をのぞかせて、着ている当人は至ってさりげなさそうに、片手をポケットに入れ、片手にリードを握って颯爽と歩いていた。立ち上がった舞はまずそのすらりとした姿にときめき、それからふと司の足元に目を下ろして愕然とした。


「トビちゃ……えっ……?」


 これが本当に同じトビーだろうか。確かにかれこれ一月以上会ってなかったわけではあるけれど、子犬の成長がこんなに早いなんて。先月まではせいぜいポメラニアンサイズだったトビーは、今や小柄な柴犬ほどもある。それでもつぶらな黒い目や、舞を見つけるなり尻尾をちぎれんばかりに振りまわすところなどは少しも変わらずトビーなのであったが。


「トビちゃん、見ないあいだにずいぶん大きくなったね」

「ああ。母は抱き上げるのもやっとなぐらいだ」

「も、もしかして、本当に琥珀の子だったりする?」

「そんなわけあるか」

「そ、そうだよね……!おいで、トビちゃん!」


 舞が屈みこんで飛びついてくる犬と戯れていると、司は、この肌寒い曇り空の下とはいえそれなりに人影もある噴水広場を目だけで見渡して、ひとつ咳払いをした。舞とトビーはふしぎそうに同時に司を仰いだ。司は恥ずかしげに目を逸らしていた。


「いや、その……歩かないか?」

「えっ、あっ、うん!」


 モスグリーンのリードを引きながら、やや顔をうつむけて足早に噴水広場を去ろうとする司を、舞は小走りに追いかける。やがて紅葉した樹々に囲まれた公園内の散歩道へと出ると、司は歩調を緩めたので、舞も隣に並ぶことができた。そうして並んで歩くことの快い息苦しさに、舞は初めて酔いしれた。司もまた同じ気づまりで以って、秀でた鼻先を正面に固定していた。言葉を交わすだけのことが、この少年少女には急に難しくなってしまったのである。


(こ、これって、デート……?)


 寒さのせいではなく、舞はマフラーの中でほのかに頬を赤らめた。なにも初めからわかりきっていたことなのに。二人きりで公園で会うと約束したその時から。だが、二人の約束は、単に久しぶりにトビーに会いたいという舞の望みが司の母親の耳に入ってしまったときに、無理やり取りつけられたものなのだ。なにも司が休日に好んで舞の顔を見たがったわけではない。


 舞の方だってそんなことは理解していたし、いまさら落ち込みもしなかった。確かに今日のコーディネートには母にも姉にも雑誌にも左大臣にも相談して散々悩んだし、公園に到着した瞬間から今日の花柄のスカートは司の好みからするとやはり派手すぎたのではないかと思いはじめていたし、せっかくだからスニーカーではなくて買ったばかりの真っ赤なバレエシューズ(リボンつき!)で来ればよかったと後悔してはいるのだが。しかし、これらの悩みも後悔も、散歩をしているトビーに会わせてもらうほんの五分かそこらの時間のためのものであったのだ。まさか一緒に歩くことになろうとは思ってもみなかった。人目を避けるためだとしても、一瞬で会合を終わらせてしまえばそれで済む話なのだし。


 胸がくすぐったい。呼吸が上手にできない。舞は逃れるように頭上を仰いで、入り乱れる紅葉の果てに、乳白色の池のようにたたずむ曇り空を見出した。点描画のように重なり合い、わずらわしくももつれ合い、そして鮮やかに燃え立つ樹々の向こうにあっては、低く垂れこめた陰気な雲さえもが、この身が洗われるような清冽な安らぎを与えてくれるように思われる。


 ふと舞と司の指先がすれ違いざまに触れあった。永遠のようなその刹那を受けて、痺れたように肩が跳ね、二人は慌てて指先を、少年はポケットのなかへ、少女は自分の右手のなかに避難させた。トビーが一体なにごとかと振り返った時、二人は赤く染まった顔を背け合っていたが、その実自分たちで思っているほど互いの距離は開いてはいけなかった。


 言葉で繕うのも不自然に思われるままに沈黙が過ぎていった。犬が嬉しげに吐く息と、やわらかな足裏が土を踏む湿ったような音ばかりが、二人の時間を刻んでいった。たとえそれが無機質な秒針より心持ち急き気味であったとしても、二人にとってははるかに慈悲深く、ものわかりがよかったことは言うまでもない。沈黙の長さを気に病む必要もなく、気まずさを感じているという事実がもたらす悦びを永らえさせてくれるものであったから。


 高鳴る胸を痺れる手でぎゅっと抑えて、舞はゆっくりと息を吐いた。その吐息を聞きつけたのだろうか。顔はまだ背けたまま司が口を開く。


「そ、そういえば、英語はどうだったんだ?」


 沈黙にそういえばもなにもないのだが、舞には司が尋ねようとしていることがわかった。中間試験の結果のことを言っているのである。舞はようやく目線を少し前に戻せるようになって、


「な、なんとか……!」

「赤点は逃れたか?」

「うん!だって平均超えたもん!」

「そうか、よかったな」

 舞は気づかれないように深呼吸をすると司の横顔を見つめて、ついに言った。


「結城君の教え方がじょうずだからだね……!」


 司の鼻先は紅葉の色を投げかけられて、また向こうにすっと消えてしまった。


(……私はこの人が好き)


 舞はひとりでに浮かんできた微笑みを口の端に載せて、あたかもその唇で紡ぐようにそっと呟いた。


(強がってるけど、本当は弱くて、さびしくて、やさしくて。ずっと孤独ひとりだっただけだよね。前世からずっと……)


 翡翠の瞳が不安げに揺らめきだす。前世からずっと……本当に?前世の孤独と現世の孤独とのあいだにさしはさまれたあの幸福、あの笑顔を忘れ去ってしまってよいものだろうか。なぜ一続きになるべき物語に、束の間の挿話があったのか。


 玲子の手紙を思い出す。漆の手先によって殺され、玲子の手によって地獄の門から押し返された司の魂が何を成したか。それが司の変貌の鍵であると玲子の手紙は語っていた。たとえ以前の司のことであっても、今の司は思い出せるのではないかとも。記憶は魂に刻まれるものだから――



 結城司の魂に呼びかけられるのはあなただけではないでしょうか――



「……そういえば」


 司の言葉の始まりはまた、そういえば、だった。


「父さんにこのあいだ会った」


 途端に舞は物思いも忘れてぱっと顔を輝かせた。


「そうなんだ!お父さん、元気だった?」

「まあな……」

「トビーちゃんも会ったの?」

「いや、食事をしただけだから……」

「そうだったんだ。じゃあ、トビーちゃんに会ったらびっくりするね」

「確かに写真を見せたら言葉を失っていたな」

「おっきくなったもんね。お父さんといっぱいおしゃべりできた?」

「まあ、それなりにな。それで……そうだ」


 とつぶやいて、司は足元のトビーの尻尾を見下ろしたまま、


「父さんの昔のゼミ生が今就職して遊園地に勤めてるらしい」

「そうなんだ」

「ああ……優秀な学生だったのに進学せずに残念だと父が言っていた」

「ふーん」

「アン・ブロンテについてなかなか鋭い卒業論文を書いたらしい」

「へぇー……」


 司の目は相変わらずトビーの尻尾にくっついたままだ。トビーの尻尾は右に揺れつつ左に揺れつつ、以前よりはいくらか貫禄のついてきた足取りにあわせて動く。この話ははたしてどこへ行きつくのか。


 こほん、と司がひとつ咳をした。

「それで、だ。その学生が、いやその、今は学生じゃないが、とにかく卒業生が遊園地のチケットを父にくれたらしい……二枚」

「よかったね」

「それを今度は父が僕にくれた。誰かと一緒に行くといいって。だが、僕は特に一緒に行く相手はいない」


 と、目の前に差し出される厚地の封筒に舞は目を瞬いた。


「……えっ」

「お前はいるだろう、誰か一緒に行く相手が」


 そう言いつつ、司はなぜだか絶対にこっちを見ようとしなかった。


「えっ、でも、お父さんと一緒に行けば……」

「父さんは忙しい」

「お母さんは……」

「子供じゃないんだぞ。母親となんか行くか」

「東野君は?」

「…………」


 長いこと返事はなかった。封筒は受け取られぬまま宙に浮き、トビーの歩調は軽く尻尾は揺れ、司はまっすぐ前を見続けていた。流し目ではあるものの、司の瞳がこちらに向けられるまで舞は辛抱強く待たなければならなかった。


「……一緒に行くか?」


 唇の動きを追っていないと、聞き逃してしまいそうな声だった。けれども、かすかな声は翡翠の池を潤わせ、波立たせる。舞は一瞬はっと息を呑み、それからは祈るようにひたすらに真摯に、じっと両手を組んで聞き入っていた。薄く開いた唇から吹き込む風が、小さくのぞく白い前歯の端を乾かしていく。


「うん……!」


 小さくうなずいた舞は、急に堪えられなくなってぱっと顔を背けた。司の瞳もまた、木の葉が枝を離れるようにさっと舞の赤らんだ頬の上から剥がれ落ちて、宙を舞った。傍目から見れば子犬だけが楽しげであった。しかしその実、少年と少女は、子犬の何倍も幸福であったのである。



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