第十八話 聖夜

18-1 あの冬の日

 あの冬の日の自分のことを、彼女は九つであったと思うようにしていた。


 そうすれば京の路上で行き倒れていた憐れな娘に手を差し伸べてくれた、あの可憐な少女と同い年だということになる。飢えと貧しさしか知らなかった娘に、初めて微笑みかけてくれた少女――この世界のなによりも清らかで貴く、いとおしい女人ひと


「さあ、わたくしと一緒に来て」


 翡翠色の瞳にやせ細り土埃にまみれた娘を映して、少女はそうささやいた。少女の名は八重藤やえふじといった。


 その朝は薄曇りで、朝日はおぼろにしか姿を現さぬまま高く昇り、そのまま滑り落ちるようにしてすばやく夜の谷間に身を潜めてしまった。月明りだけが簾の隙間から細く差し込んできて、汗ばむほどに温い車内の闇を鏡面のような冷ややかさのなかにひたそうとしていた。飢えた娘はなんとなくそれを恐れて、投げ出しかけた足をおずおずと与えられたばかりの着物の裾に引き込もうとした。そんな些細な所作のなかでさえ、綿の重みがくるぶしに引っ掛かったために、彼女は少々まごついた。


「寒くなくて?」


 気づいた少女がそっと尋ねて、その身の熱をますます彼女の方へと押し当てた。彼女の戸惑いはほとんどこの少女から寄越されたものであった。到底ありつけないと思っていた食糧や衣類や寝床のためではない。少女のかぐわしい香りが、甘くしとやかな声音が、時おり頬に触れる髪のやわらかさが、そして、そうしたものの一切を他人に許して憚らぬ彼女の慈愛に満ちた厚かましさが、彼女を慄かせた。まるでこの世のものではないものに魅入られたような気がしたのだった。


「……わたしはどこへ行くの?」

「月修院よ。京からずっと北の方にあるの。とても美しい場所よ。静かで満ち足りていて、そして守られているって感じがするの」

「守られているって、だれに……?」


 生まれてこのかた他者による庇護というものを受けたことのない娘は、守られるという言葉そのものに、本能的に不安を抱いたようだった。すると、少女はその不安を気取けどったように、翡翠色の瞳をゆっくりと瞬かせて、ゆっくりと言い聞かせるようにささやいた。


天満月媛あめのみちつきひめさまよ。月の女神さま……知っていて?この世界は天つ乙女という方が創られたの。そして、この世界が創られたばかりのころは、月と太陽とがともに浮かんでいたんですって。それを見た天つ乙女さまは『なんて眩しいのだろう』と仰ったの。満月媛さまは我が身を恥じて、水底に沈んでしまったそうよ。それから昼と夜とが交互に来るようになったんですって」


 話を聞き終えて、娘もまた真剣な瞬きを返した。神からも信仰からもみはなされて生きてきた孤児みなしごの胸にも、この悲しい神話は、なにか苦しいほどの感情をかきたてたのである。憧れを募らせればそのぶんだけ冷酷に突き放されるという世の摂理に、この娘がそれだけ馴染んでいたためであろうか。娘はもうこれ以上埋める距離などないというのに、八重藤の方へといざり寄った。


「わたくしたちはそんな満月媛さまをお慰めするために、日夜お仕えしているの。そうすれば死んだ後でも満月媛さまに守っていただけるのよ。そして、よい来世を送ることができるの」

「来世?」

「そう。たとえ肉体が滅びても、わたくしたちの魂は死なないわ。魂はまた新しい肉体に宿り、わたくしたちは生まれ変わるの。そうして魂に刻まれた想いは受け継がれていくのよ」

「うそよ。そんなことが本当なら……本当なら、さっさと死んでしまえばよかった。あんな苦しい思いをしなくてよかったじゃない。あんなにがんばって、くるしんで、生きようとしなくったって……!」


 娘の言葉は衿のうちに吸い込まれて消えていく。八重藤は震える細い肩に手を伸ばしかけてためらい、翡翠の波を薄い瞼で抑えて凪がせた。降ろされた手は乏しい月明りのなかで灰色に褪めている衣の膝の上で重ねられた。


「……きっと貴女の人生は、わたくしなどには想像もできないほどつらいものだったのでしょう。わたくしはきっとあなたの苦しみを理解することはできないわ。ごめんなさい。でもね、わたくしにも死んでしまえばよかったと思う日々があったわ」


 沈黙のなかで娘が涙に汚れた顔を上げると、八重藤は重ねた指先を見下ろしながら語り出した。


「わたくしのお父さまは早くに亡くなったの。お母さまはわたくしをあまりかわいがってくださらなかった。お父さまが生きているころから、お母さまのもとには毎晩のようにちがう殿方がやってきたわ。わたくしは怖くて乳母めのとの部屋で震えていたわ。


 お父さまが亡くなってからしばらくして、お母さまはある夜やってきた殿方とともに家を出ていったきり、帰ってこなかった。わたくしはね、お母さまに捨てられたの。お母さまがいなくなってから、家に仕えていた使用人たちはひとり、またひとりといなくなったわ。乳母だけが最後まで残ってくれたの……でもね、本当は残ってくれないほうがよかったのよ。乳母は急に人が変わったように、わたくしに厳しくなった。態度も言葉遣いも乱暴になって、時には叩かれることもあったわ。ひどい言葉をたくさん言われたわ。わたくしには意味のわからないような言葉も」

「そんな家、逃げ出してしまえばよかったのに」


 娘がふてくされたような顔で率直に言うと、八重藤はそうねと微笑んだ。


「貴女の言う通りよ。でも、できなかったの。だって乳母もとてもつらいのだって、わたくし知っていたから。乳母はわたくしの世話をするために精一杯だったの。それで優しく振舞う余裕がなくなってしまったのね。わたくしを世話するために、たったひとりになって、追い詰められて、行き場のない感情を発散できる相手はわたくしだけだったの。だから、わたくしは生まれてこなければいいと思ったわ。お父さまといっしょに死んでしまえばよかったって。乳母にもそう言われたの。『お前なんて、死んでしまえばいいのに』って。


 ある夜、本当に死んでしまおうと思い立って、ひとりでこっそりと家を出て、東雲川しののめがわに飛び込んだわ。幸いにもすぐに見つけられて助け出されたのだけれども。助けてくれた人たちに連れられて、あくる朝に家に帰った。そしたら……そしたら、乳母は死んでしまっていたの……自ら首をくくって」


 八重藤は耐えられないように両手で顔を覆ったが、娘が予期した歔欷は訪わず、大きな花弁のような白い掌が開かれると、悲しみはすでに花芯となった誇りを負うて、翡翠の瞳に、力強い一顆のきらめきを宿していた。娘はそのきらめきに目を瞠った。人間のなかに、これほどの貴く憐れな感情を見出したのは、初めてであった。


 八重藤は照れるように弱々しく微笑んだ。


「そうして身寄りのないわたくしは月修院に引き取られることになったの。月修院に来てからもわたくしは苦しみ続けたわ。あの夜どうして死ぬことができなかったんだろう、死んでしまえばよかったのにと。祈りのたびに満月媛さまに訴えたわ。『どうしてわたくしを連れていってくださらないのですか?どうしてわたくしをひとりにするのですか?』って。


 でもね、ある日、月修院さまが――月修院のなかで一番えらいお方が、こう仰ったの。『八重藤、あなたは生かされているのですよ。生きなさい。生きてあなたのつとめを果たしなさい』って。そうよ。そして、わたくし、今日、貴女に会えたんだわ……」



 夜が明けるころ、月の巫女と孤児たちを乗せた車は北山の麓にある月修院の門前へと到着した。わだちさえもが凍てつく群青の底に、月修院宗主みずからが降り立って車を出迎えた。巫女たちが京にて慈善の業に尽くしている七日七夜、巫女とその救済の対象である孤児たちと苦しみをわけあうべく、宗主もまた一睡もせぬ習わしである。しかし、宗主は涼やかな灰色の瞳を疲労に濁らせることもなく、決して大仰ではない、穏やかな喜びと慈愛に満ちて、孤児たちを迎え入れられた。宗主はいつものように、帰ってきたばかりの巫女ひとりひとりにていねいに話しかけなさったが、八重藤にもやはりお優しい言葉をおかけになったのであった。


「八重藤、無事に帰ってきてよかった。誰よりも幼いあなたが、誰よりも重い務めを果たすことになるのではないかとの予感があったのです。あなたの務めは果たせましたか」


 低く、心地よく、けれどもどこかざらついた声であった。八重藤は両手を額の前で結んで膝を折る月修院独特の辞儀をしたうえで、すなおに微笑んだ。


「はい、月修院さま。満月媛さまがわたくしたちを導いてくださいました」


 八重藤の目配せを受けて、月修院さまは八重藤の後ろでおどおどしている娘の方に初めて声をかけられた。


「満月媛さまのお導きとは八重藤はよい言葉を使いました。もう何も心配はありません。ここでは誰もが支え合い慈しみあって暮らしているのです。貴女もきっとこの八重藤のようになれるでしょう」

「わたしが……?」


 疑わしげに八重藤を見た娘のまなざしは、見る見るうちにほどけてあどけない陶酔を宿しはじめた。八重藤の翡翠の瞳はしっとりとそれに応え、瞳を追うように左手が伸びて、娘の手を取った。幼い者たちの交情を月修院さまは慈愛の目を細めて見守っていらっしゃった。折しも、明け初めの日が地をひらき、夥しい夜露に濡れた草原を燦然と輝かせ、少女たちの頬を照らし出した。


「そうですよ。貴女は八重藤のようになれる。貴女の新たな名を付けねばなりませんね。ならばこう呼びましょう……八重藤から名をもらって、藤尾、と」




 藤尾――そう、それが私の名前。


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