16-5 「父親に殺されるなら本望だよ」

 午後から降り出した雨が止んだ。晴れ上がった空を見上げて、トビちゃんの散歩に行っておいでと母親は嬉しそうに司に勧めた。


 散歩とは言いつつも、いきなり地面の上を歩かせることには不安があったので、司はトビーを抱いたまま外に出た。二十分か三十分間だけ家にいなければいいのだ。母親がささやかなご馳走をこしらえている間。今日はきっとお祝いになるのだろう。トビちゃんお帰りパーティだとかいって、また厄介なことになるに違いない。


 司は自宅近くを流れる篠川沿いを歩くことにした。住宅街は時々とはいえ車が通るし帰宅中のサラリーマンたちともすれ違わなければならないが、川沿いの道は静かだ。見なければならないものは街灯の照らし出すところだけ――雨露を真珠のようにちりばめたほの温かい川辺の暗闇から、川のせせらぎと、かすかに澱んだような水と草のにおいが立ちのぼってくる。川が気になるのか、トビーは司の腕から身を乗り出してフンフンと鼻を鳴らしていた。


 家々の窓に連なる団欒だんらんの灯影も対岸にあれば手が届かない――そこまで思って、司はふと、それほどまでに卑下しなくともよいのではないかと心づき、驚いた。なぜなら、今宵、母親がこしらえようとし、そして司が心待ちにしているものこそ、かの灯影であるのだから。


「これでまたみんなで暮らせるねぇ」


 昼間の母の言葉が思い出される。誰も見ていないにも関わらず、司は街灯の光が引っ掛かったのだとでも言いたげに、ごくさりげなく眉をひそめた。自分はこの言葉にこだわりすぎていると思った。穿ちすぎだ。母はもしかして「みんな」で暮らしたかったのだろうかだなんて。確かにものさびしい暮らしではあったけれど、母子二人の生活に不満はなかった。父親など必要なかったではないか。


 皮肉な笑みを浮かべるのは、子犬が父親不在の穴を埋め得るのだという自分自身の発想ゆえであった。たかだか子犬一匹でその不在が塞がってしまうというなら、父親なんてものはなんと頼りない存在なのであろう。きっと自分は父親というものを過小評価している。父親が何たるかを知らないから――現世でも、前世でも。



『…………もっとご一緒にいて、父上……お願い、こっちを見て……」



 くしゅん、と胸元でトビーが小さなくしゃみをした。寒いのだろうかと思って、司は着てきた上着の胸元に子犬を引き入れて、上着の釦を閉めた。トビーがもぞもぞと後ろ足を動かすのがシャツの上、すぐそばに感じられる。くすぐたくって温かい。これはきっと父親とは違うだろう。でも、司は満ち足りて微笑んでいた。


 そろそろ引き返そう、あの橋まで差し掛かったら。そう思って、ふと、対岸に不思議にも月光の溜まる場所があるのに気づいた司は、そちらへ目を向けて慄然とした。


 トビーが胸のなかで必死にもがこうとするのを司はぎゅっと抱え込んだ。獣は唸り声をあげて司を睨みつける。山で熊と出くわしたときには背中を見せずゆっくりと後ずさるとよい、そんな話を以前聞いたのを思い出して、司は駆けだしたい衝動を懸命にこらえながら、いつの間にか鉛のように重くなったスニーカーを慎重に持ち上げた。


 川面は霧のような冷気に包まれていた。呼吸をするに肺がきりきりと痛み、皮膚がぴんと張りつめていくのを感じた。胸に抱いた温もりからも遠ざけられていくような気がして、司はいよいよきつくトビーを抱きしめた。この震える腕はもう温もりを手放すつもりはない。


 まるでそんな司の心を見抜いたかのように、獣は怒号を上げると、鎌のごとく尖った爪で土を蹴り上げ川面を飛び越えんとする。金色の月は跳躍する獣の影に覆われて遠ざかったにも関わらず、燃え盛る琥珀の毛並みの煌めきのためにいっそう間近に迫りきたように思われた。司は思わず身を翻して駆けだしていた。背を見せようが見せまいがいずれにせよ琥珀は襲いくるのだから構わないだろう。獣が着地した振動が司のスニーカーを捕らえる前に、琥珀は司に向かって猛然と突進してきた。トビーを抱えた司には振り切ることは難しかった。獣のにおいが濃く漂ってくる。


 ああ、だめだ、捕まる――!


 焦った足が地面を捉えかねたために、司は辛くも琥珀の爪を逃れた。が、咄嗟にトビーを庇おうとして仰向けに倒れた身を、獣の影が踏みしだいだ。


 トビーがきゃんきゃんとわめいている。まるで何かを必死に訴えているようだ。後頭部を打ちつけたせいでくらくらと回る視界のなかで、琥珀が鼻先で空を掻くのが見えた。その提案は却下する、とでも言いたげに。トビーはいっそう甲高く鳴いた。が、多分その懇願は聞き入れられないはずだ。


 間もなく噛み砕かれるという段になった。さあ聞いてみよう。僕は失望している――?いや、ちっとも。これこそ僕のよく知っている人生だから。小春日のあとに烈風が吹き寄せる。誰かの微笑みに裏切られる。おなじみの人生だ。だから……これが最期だとして、格別なにも憎めない。僕は琥珀のように亡霊にはなれないだろう、きっと。助けさえも期待していないのだから。


 司の手がトビーの背に伸びると、琥珀は低くうなりだした。司は怯まない。獣の前足の重みに抗って胸の半ばまでを起こすと、緋色の炎の向こうにある黒い惑星の本体を見据えて冷ややかに笑った。それは司が自らの生そのものに向けて浮かべてみせる表情であった。そして発せられる言葉も。


「……お前は賢いな、琥珀」


 冷笑が乾いた風を吹かせる。


「そうだ、僕といてもこいつは幸せにはなれない。だから命がけで取り戻しにきたんだろう?立派な父親だ」


 乾いた風は深い溜息となる。


(上出来じゃないか。僕は父親というものを知らずに過ごしてきた。その人生の最後に、父性が嵐のように怒り狂って押し寄せて僕を喰い殺すのだから)


 ひび割れていたあの眼鏡……


「待ちわびたかいがあった」


 …………もっとご一緒にいて、父上。


「そうだ、父親お前に殺されるなら本望だよ」


 雨の音が聞こえる――




 一発の銃声がこの世界の全ての音を打ち砕いた。ぱっと身をかわした琥珀の前足に蹴り飛ばされて、司の身はトビーを抱えたまま大きく跳ね、そのまま河川敷の斜面を転がり落ちた。


「結城君!」


 ふわりと桜の香りがした気がして目を開ける――まさか。この声が、香りが、彼女のはずがない。これは窮地に陥った自分が作りあげた幻聴だ。絶望しなくても済むように、そう必死に言い聞かせながら見上げた先に、宝冠に、流れる髪に、華奢な肩に月光を浴びる可憐な少女の立ち姿があった。


「京野、なんで……」

「結城君、大丈夫?」


 迷いなくすらりと差し伸べられる白い手。ああ、この少女はいつだって…………


「……ああ」


 伸べられた手を握りしめて、司は立ち上がる。その温かさを司はもう煩わしいとは思わなかった。一瞬同じ高さに並んだ瞳が互いのきらめきを返して閃きあった。その時、見えないながらに確かに結ばれたものは、司が京姫を見下ろすようになってもほどけることはなかった。


 二人の瞳はともに琥珀を見上げた。


「あいつのねらいはトビーか」

「うん……結城君はここで待ってて。トビちゃんのこと離さないでね」

「わかってる」


 司は胸のなかに包んだ子犬を抱きなおしてうなずいた。子犬は司を見上げてクンクンと鳴いていたが、もうじたばたと動き回ることはない。京姫は左大臣と激闘を繰り広げている琥珀から目を離して、トビーの顎をそっと撫でてさびしげに微笑んだ。


「トビちゃん、ごめんね。でも、これからは私たちがトビちゃんを守るから大丈夫だよ」


 トビーは首をかしげながらつぶらな目で京姫をじっと見つめている。その視線に耐えかねたように顔を背けた京姫は、打って変わって毅然と身を翻して、斜面を数歩のぼった。「京野」と呼ぶ声に、京姫は振り返った。その顔はいつもよりほんの少しだけ青白かった。


 何を言おうとしていたのだか、急に司はわからなくなってしまった。振り返った顔が想像していた顔と少し異なっていたせいだろうか。その顔は凛々しく、優雅であった。いつもの明るく親しみやすい京野舞の笑顔ではない。まるで高貴な姫君のような――そして気づく。今この瞬間、自分の目の前にいるのは、京姫であるのだと。京に安寧をもたらし、民に永久の慈しみを与え、清浄なる孤独のなかに短い生涯を終える聖なる巫女。この手など決して触れるはずのなかった貴い姫君。


 それでありながら、彼女は京野舞でもあった。だから、たとえ戦場にあっても、司に向かって微笑みかける。その翡翠の瞳に映し出されているのは、結城司、たった一人だけであった。


「なあに、結城君?」


 優しい声で京姫が尋ねる。まるでちょっとした会話の切れ端のように。その何気ない調子のために、司はようやく言いたい言葉を思い出した。


「……気をつけろよ」

「うん……ありがとう」


 翡翠の瞳で闇に軌道を描いて、京姫は歩み出した。


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