第十七話 雨止み

17-1 「トビちゃん、ダメッ!!」

 刀の面は常に明滅していた。それは夜の闇と、琥珀の毛皮の輝きとを交互に映し出しているためである。いかめしい顔つきをした狩衣姿の老人は、老練の獅子のような俊敏で的確な動きで手にする剣を閃かせる。獣を追い詰めることこそできなかったが、決して琥珀の牙を近づけようとはしなかった。白く太い眉の下ではまた、黒々とした眼光が鋭く琥珀の緋色の炎と切り結んでいた。


 銃を構えつつ、玲子はやや距離をとって慎重にねらいを定めていた。獣の動きは素早く、容易には捉えられない。焦りは禁物だった。手元が少しでも狂えば左大臣を打ち抜きかねない。


 左大臣の影が堤防の下にひらりと飛んでいったのを追って、琥珀の姿も玲子の視界から消えた。だが、玲子が銃を下ろしたのはそのためではなかった。突如として胸のあたりがずきずきと疼きはじめたのである。琥珀が醸し出す荒れ狂う嵐の冷気とは違う、刃物を首筋に充てられたような冷たさを、玲子は背筋に覚えた。


 銃口と共にぱっと背後を振り返った玲子は、闇に沈んだ家々の壁の色を睨み続けて、ひそめた眉根を開こうとしはしなかった。何もいないが何かがいる。あるいは漆よりもよほど狡知に長け、邪で、悪意に満ちている何かが――深く息を吸い、胸元の疼きを抑えようとしながら、銃口で闇を切り開くようにして玲子は辺りを見回した。やはり何もいない。


 その時、真上から冷たく重い果実が落ちてきたように、何かが玲子の背後に現れて、耳元でささやきかけた。


「あんまり邪魔しないでくださいねぇ、いい子ですから」

「……!」


 身を捩ろうとしても体が動かない。囁きかけてきた女の声は、正体を晒さぬままに玲子の耳に軽薄な笑いを吹きかける。眼鏡がみるみるうちに曇っていく……これはレンズを霜が覆っているためだ。


「ふふ、あなたにはあまり乱暴したくないんですよねぇ。だから大好きなパパの声でも聴いて、ちょっとばかしおとなしくしててくださいな…………『玲子、愛してるよ。私にはお前しかいないんだ……ほら、お父様のそばにおいで』」

「っ!」


 女がけたたましく声を上げて笑う。玲子は嫌悪と怒りのあまりに心だけは弾かれつつもまるで見えない無数の手に抑えつけられたかのようにまだ動けないでいる。なんという悪夢だろうか――聞こえた声がまさしく父親の声そのものであったなんて。しかし、一体この声の主は何者なのだろうか。新たな敵であることには間違いないけれど、それにしてもどこかで……


「危ないっ!」


 可憐な声が悪夢を、霜を取り払った。雫を結んだレンズの向こうに、燃え盛る金色こんじきの炎を確かに認めた。玲子の瞳は驚きに見開かれ、そして睫毛がレンズを伝う雫を拾ったために微かに細められた。その間にも銃を持つ手はかかげられてはいたが、ねらいが定まるより先に炎が隕石のように玲子に突撃して、車椅子を宙高く跳ね飛ばした。炎は玲子の意識をも焼き尽くした。


「玲子さん!」


 咄嗟に駆けつけようとするも落下していく玲子の身を受け止めることはできなかった。金属が地面に打ちつけられるすさまじい音を立てながら車椅子が墜落し、玲子の身もそれから間を置かずして鉄塊のすぐ傍らに崩れ落ちた。駆け寄ろうとした京姫は、ずれ落ちた玲子の眼鏡が白くひび割れているのと、青ざめて眠っているその額にくれないの鮮血がすっと一筋の線を描いているのが見えた。一瞬、姫にはそれが玲子の前髪かとも思われたのであったが。


「玲子さん……!」


 あと一歩を踏み込もうとした京姫は、横から殴りかかってくる風に気づいて間一髪で身を交わす。着地の瞬間にバランスを崩しかけて身を立て直した京姫は、玲子との間に立ちはだかる琥珀と真正面から向き合う形になった。ふと気がつくのは、こんな時に身を守ってくれる武器を自分は持っていないということだ。確かに自分には霊力があるが、それだけでは敵の攻撃をいなすことはできない。ロッドがあった時は随分と便利だったものだ。だが、どれだけ惜しんでも仗はもう戻ってはこない。今の京姫には必要ないとみなされたために。


(でも、もし今この瞬間、武器があれば……)


『桜花……!』


 両掌を琥珀に突き出して姫は唱えかける。しかし、予想通り、琥珀は京姫を待ってはくれなかった。直前まで立ち尽くしていた場所に琥珀の息が立ち込めるのを、京姫は夜空の風に吹かれつつ感じた。後退した京姫はまだまともに身を支えきれぬ間に、ぱっと身を屈めて琥珀の爪から首を庇わなくてはならなかった。もし一瞬でも遅かったら、頭と胴体が切り離されることになる。京姫は思わずぞっとした。やはりせめて武器さえあれば……!


 その時、「姫さま!」と声がして、左大臣が河原の急斜面を駆けあがってやってきた。左大臣は銀の刃を振りかざして琥珀の目を惑わせると、琥珀が忌々しそうに唸るすぐ鼻先で、京姫と獣の正面を代わった。京姫は流星のように銀の輝きをほとばしらせる刃のしたたかさを後目に駆けに駆け、横たわる玲子の元へとようやく駆けつけた。河原の草の上に横たわれるその胸が静かに上下をしていることに、京姫はまずほっとした。額の傷は後で玄武が治してくれるだろう。それにしても、頭を打ったらしいことが少し気になるが。


 今はともかく琥珀を退治しなければ。立ち上がった京姫は、再び琥珀の方へと行きかけた時、玲子の唇が紡いだ言葉を聞いた。それは京姫の足を止めさせはしたものの振り向かせはしなかった。ただ、姫は翡翠の瞳をほんの一瞬だけ苦しそうに閉じた。


 開いた瞳が、左大臣の危機を捕らえた。三日月のように閃くものがあったかと思うと、左大臣の狩衣の袖が引き裂かれ、その拍子に、まるで指貫さしぬきの裾が地面から飛び出てきた見えない手に強く引っ張られたとでもいうように、左大臣は大きくバランスを崩した。京姫はたちまち地を蹴った。


「左大臣!」


 思わず叫んだその声で背後から迫る京姫に気づいたのだろうか。琥珀は右耳をちらりと寝かせて姫の方を片頬で見遣ると、よろめきながらも刀を振る左大臣を前足で跳ね飛ばし、身を翻して京姫の方へと駆け出した。「えぇっ?!」と慌てふためきながら急ブレーキをかけた京姫は、琥珀の突進を到底交わしきれないことを悟るやいなや、ぱっと地面に伏せて頭を庇ったが、そうしたところで、ただ轢き殺されるか踏みつぶされるかの違いだと気づいたころには、もう琥珀の巨大な影を頭に浴びていた。お、お願い、飛び越えて――!


 ひゅっと矢が風を切るような音が頭上に聞こえた気がした。続いて雷鳴が鳴り渡るようなすさまじい騒ぎが起こった。はっと顔を上げた京姫は、草の上でもつれあう三頭の獣を見た。一頭は太陽のように巨大で黄金に煌めき、二頭は一双の月のように白銀に輝いている。天文学的な速度で動き回る三つの影をぽかんと見つめるうちに、姫はそれが狼と二頭のボルゾイだと気づいてはっとする――ボリスとアンドレイ!


「白虎!近くにいるの?!」


 風の声で呼びかけるも返事はない。なぜだろう。だが、考えている暇はない。今は目の前のことに集中しなくては……!京姫は両足を開いてまっすぐに立つと、川辺の黒い靄を切り薙ぐように右手を突き出した。


 優美なボルゾイたちが今や赤く充血した歯茎までをもむき出しにして、琥珀に食らいつこうとする様がぼんやりと見える。対する琥珀の頭は振りかざされ、牙の影を銀の雫のように飛び散らしている。目に見えないほどの速さ――でも、ボリスとアンドレイのおかげで琥珀の身は一所ひとところにとどまっている。今がチャンスだ。


 獣の唸りが指先の皮膚をびりびりと震わせて、心臓にまで伝わってくるような気がした。私の技のいいところは味方を傷つけずに済むところだなと姫は思う。これだけは武器ではどうにもできないことだけど……



(さようなら、琥珀……)


 

 さあ今度こそ、桜花爛漫を――



 ああ、やだな。また背中の傷が疼き出して…………




 その時、この場にひどく不似合いなキャンキャンという鳴き声が聞こえてきて、京姫は眉をひそめた。


「待てっ!」


 キャンキャンと吠えたてながら河原の斜面を走り上ってくる子犬を、司が追ってくる声がした。どうやら琥珀とボルゾイたちの戦いに興奮して、トビーが司の腕を飛び出してきてしまったらしい。駄目、こっちに来ては……!京姫ははっとする。今来ては、琥珀たちの乱闘に巻き込まれてしまう。


「トビちゃん、ダメッ!!」


 京姫が駆けだしたのと、琥珀が子犬に気がついたのが同時であった。そして、琥珀がボルゾイを振り捨てて子犬の元に駆けつけたのと、結城司がトビーを抱きかかえようとしたのもまた、同時であった。


「結城く……!」


 見ひらかれた翡翠の瞳に、憎悪が凍てつかせた氷柱の突端に光った月光を点じて強く閃いた。司の立ち姿はその閃きの下に影絵となった。影絵は光に刺し貫かれてかき消された――姫の瞳から輝きを奪っていっそう強く、いっそう冷ややかに煌めく月光に。



「ゆうき、く……」



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