16-4 狼狩り
「……始まったようですな」
変身できないという理由で戦闘要員から外された左大臣は、今は玲子と共に白崎家の一室の留守を預かっている。舞の様子は一向に変わらない。悪化もしないかわりによくなりもしないのだ。時折唇が動いてなにごとかつぶやいている様子であったが、それは夢のなかより抜け出し得ぬままだ。
「上手くいけばよいのですがな……」
ノートパソコンに映るライブカメラの映像には、獣道を掻き分ける玄武と木守の姿が映し出されている。玄武は時折立ち止まり、弦を打ち鳴らしたり、矢を射掛けたりしている様子であった。司令塔役の玲子はしばらく映像に見入っているようであったが、特に大きな動きがないことを確かめると、舞の寝ているベッドへと車椅子をつと寄せて、舞の頬のかたわら、左大臣の目の前に小瓶を差し出した。
「これは?」
「昨夜ルカが言っていた篝火の薬です」
左大臣は両腕をいっぱいひろげて小瓶を支えた。瓶のなかにはかつて篝火が青龍に渡したときとそっくりそのままの姿で、葛の葉に包まれた何かがおさめられている。
「出かける前にルカから預かりました。左大臣、貴方にお渡しします」
「つまりは、この老いぼれに決定権があるということですな」
「誤解なさりませんように。責任を押し付けるわけではありません」
玲子の口調はいつもよりいくらかやわらかかった。
「誰よりも冷静にご判断をされると」
「お若い方はご存知ないでしょうが、自制心は年とともに弱くなるものですぞ」
「それでもあなたを信頼しておりますわ」
テディベアの黒目の反射が、小瓶の上に丸い小さな影となって留まり続けている。今となっては、この老人の叡知に託すほかない。玲子は伏せるようにして目を左大臣から逸らすと、再び映像の方を振り向こうとした。その瞬間だった。
『玲子さん!出たよ!』
玄武の声に玲子と左大臣は今しがたの遣り取りも忘れ去り、急ぎノートパソコンの方へと駆けつけた。玲子は車椅子で。左大臣は大きくジャンプして。
『白虎とボリスとアンドレが今追いかけてるとこ!すっごい速いよ!全然追いつかないもん……!』
玄武がそう喋っている間にキーボードの上で指を走らせていた玲子は、ライブカメラの一台の前を白い影がすさまじい速さで通り過ぎていったのを確かに認めた。このカメラに映るということは……玲子は急ぎ頭のなかの地図と照らし合わせた。
「このまま山を下ると西に逸れすぎるわ。玄武、後方からでいい、白虎の援護をお願い」
『了解!』
「青龍、柏木、聞こえて?」
『はいっ!』
玲子の問いかけに、やや食い気味に青龍が答える。
「順調にいけば恐らくあと三分弱で琥珀が姿を現すわ。琥珀をこれ以上野放しにはできません。必ずここで仕留めるわよ」
『大丈夫!今度こそ絶対に決めてやるんだからっ!』
「しかし、焦ったり思いつめたりするのは禁物ですぞ、青龍殿!落ち着いていつも通りにされればよいのです」
『わかってるよ、大丈夫っ!』
さらになにごとかを加えようとする左大臣を、玲子は手で制した――これ以上、青龍には何も言わない方がよい。
凍解が震えているのを、青龍は右の掌で感じた。これは武者震いだ、と青龍は自分に言い聞かせる。あたしは何も恐れてはいない。今までもそうだったし、これからもずっとそうだ。
(大丈夫。前世でも現世でも、ずっと修練してきたんだから)
青龍は一度ぎゅっと目をつぶってそれから開いた。墨が滲みだすように、黒々とした巨大な塊となった北山が、夜いっぱいに膨らんでひろがった。まるで山自体が巨大な生き物みたいなように思われる。獰猛な牙と爪を隠し、獲物に飛びかかろうと身をひそめている、漆黒の
(前回は不意打ちを食らっただけよ!大丈夫。この凍解で斬れなかったものなんてないんだからっ……!)
青龍はぱっと頭上の月へと視線をかかげた。この地上へ普く光を投げかけて闇を薙ぐ、麗しき十四日目の月が北山の上に浮かんでいた。
月…………
前世における、たった一度の敗北も月の下だった。檜皮葺の屋根の上では、真っ赤な月に手が届きそうに思えたほどだ――いや、手など届かなくてよかった。月の上は死者の世界だったから。この剣の刃さえ触れられればよかったのだ。そうしてまさに京に降りかかろうとしていた夥しい死を斬り捨ててしまえれば、よかったのに……
「あたしの務めはあんたを斬ること。なぜなら、あたしは青龍だから」
あたしはああまで豪語した。それなのに、凍解はあの男を斬り損ねた。そして、真っ赤な月が遠ざかっていって――
「来たぞ、青龍!」
瞬きとともに月は拭われた。遠い記憶の海を駆けて、青龍は白い月が照らす桜花市の地上へと舞い戻ってきた。はっとして見開いた青い瞳に獣の影が映り込むより早く、青龍は足裏に地の底で幾万という太鼓を打ち鳴らしているような轟きを感じた。琥珀が来る――
月光が
「青龍、今だ!」
その声が地を渡ってきたことにも、青龍は気づかなかった。ただ、急に背中を押されたように、青龍は慌てて刀を構えなおしたのだった。……おかしい。凍解を握る手が震えている。心が記憶のなかに置き去りにされたままで帰ってきてくれないのだ。
『は……』
走井。たったそれだけだ。めいっぱい叫べばいいのだけなのに。記憶のなかの紅の月が青龍をすくませる。体が動いてくれない。敗北の痛みと悔恨とが、この
ボルゾイたちがぱっと琥珀から離れた。それは賢い判断であった。そうでなければ琥珀の牙をまともに喰らっていたであろうから。ボルゾイたちは琥珀から間を置いて、けたたましく吠えた。
「青龍!」
銃声が放たれ、矢は月光に紛れて琥珀の身に降りかからんとする。琥珀はいずれもさっと一瞥しただけで見事に避けた。身を交わした先で、白虎の氷が後ろ足と尖った口吻とを捕らえたが、それらもたちまち振り払われる。氷の口輪を砕いた琥珀は、月を見上げ、憤怒と憎悪の咆哮を発した。
誰もが――柏木さえもが――そのおぞましい声に圧倒されるなかで、青龍はやっと手先の感覚を取り戻した。凍解が闇を裂くその線もきららかに、青龍は走り出した。
闇が風になって冷えた皮膚の上を流れていく。しかと見据えた先に、金色の獣は今宵の月のように燦然と君臨している。両耳を揃えて立て、心ここにあらずといったように月を見上げながら。
『
今度こそ仕留められる、そう確信したその矢先、琥珀の姿がふっと掻き消えた。
「えっ……」
最後の二、三歩を余分に駆けて、青龍ははっと振り返る。やはり琥珀の姿はない。唖然として
「ちっ、また逃げられたか……!」
遠いにおいを嗅ぐように鼻先を夜空に突き出したボルゾイ犬の背に触れつつ、
「玲子、聞こえるか?!またもや逃げられた!そして悪いことに街の方に逃げたようだ!」
『了解、行方を探るわ。あなたたちはその場で待機して』
「お嬢様、差し支えながら琥珀の向かう先に心当たりが」
その言葉に、皆は一斉に柏木の方を見た。柏木はまるで玲子と対面しているかのように直立不動の姿勢をとって、周りの者など眼中にないようだ。
『どこだというの?』
「子犬のいるところかと」
結城、くん……玲子の背後で、かすかな声が呼んでいた。振り返った刹那に、玲子の眼鏡と寝台の上に置かれた小瓶の反射がぶつかりあって弾けた。
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