第十話 芙蓉再び!

10-1 「なぜお前が其処にいる」

 ……ああ、なんだか遠くから誰かの声が聞こえてくる。聞き覚えのある声だ。そうだ、毎日のようにこの講堂ばしょで演説を聞いているもの――あれは生徒会長の声だ。生徒会長・白崎ルカ。類まれなる美貌とありとあらゆる才能を持ちこの学園に君臨する雲の上の人物だ。あたしには縁のない人物。あの人の立つ場所は舞台の上で、あたしが立つのは観客席だ。でも、それに不満はない。観客席は楽しいもの。感情のままに手を打って笑い、声を上げて泣き、隣の席の人と語り合うことができるから。きっと舞台の上にいる人は窮屈だろう。求められたことしかできなくて。


 それなのにどうしてみんな舞台の上に憧れるんだろう。あんなに聡明な香苗でさえもが……香苗は舞台の上に憧れる気持ちの強さのあまり、ついに舞台に上がってしまった。香苗はきれいだし、頭もいい。あたしとは出来が違うのは確かだ。でも、はっきり言える。香苗はやっぱり舞台向きじゃない。


 あたしが言っているのは決して香苗と生徒会長が不似合いだとか、そんな話ではない――香苗の想いは知っている。香苗はあたしに打ち明けなかったけど、香苗の目線を追っていれば大体のことはわかった。生徒会長を見るとき、香苗の頬は紅潮し、瞳は潤みを帯びて輝いていた。それは他の人にはわからないささやかな変化だったのかもしれないけれど、あたしにはわかった。あたしは香苗の親友だから。そうだ。だからこそ、香苗と生徒会長がどれほど似つかわしい二人であろうとも、その想いが伝わらないのもわかる。


 変なの……あたしと香苗。舞台の上の人間じゃないのに、今日は主役だなんて。ロミオとジュリエットだなんて。ふふ、変なの。香苗が好きなのは会長なのに。あたしがロミオだなんて…………



 なんだか頭がひどく重い。そして口の中が渇いている。ぼやけた視界に、スポットライトの光が痛いほどに眩しい。スポットライトのなかに向かい合って立っているのは会長と香苗だろう。影絵のようにしか見えないけれどきっとそうだ。


 ところでなんであたしは床の上に突っ伏しているんだろう。確かあたし、本番の途中じゃなかったっけ?もしかしてあたしが倒れたから、会長がロミオ役、代わってくれたのかな。よかったじゃん、香苗。ロミオとジュリエット、会長とできて……あたしなんかじゃ、なくて…………



 眠い。眠い。眠すぎる。意識が今にも途切れそうだ。会長が代わりをしてくれるなら、あたし、もう少し寝ててもいいかな。でも、なんか悔しいな。せっかく頑張って練習したのに。クラスのみんなで、絶対に優勝しようって言ってたのにさ。


 会長の手に剣が握られている。ジュリエットが死ぬ場面なんだろうか。でも変だ。ロミオは毒薬で死んで、ジュリエットが剣で自らを刺すはずなのに。なんでがジュリエットに剣を向けるの?こんなのは台本にない。ロミオがジュリエットを殺すなんておかしい。台本と違う。台詞が違う。だから、止めなきゃ。止めなきゃ……止めなきゃ……!

 


「かな、え……っ!」






「『私のたったひとつの恋は、たったひとつの憎しみから生まれたのね……』」


 つぶやいてみて、少女は恍惚として微笑んだ。


「香苗、お前の恋はわたくしの憎しみに育まれ、今飛び立つのですわ。恋を叶えましょう……潰えてしまうはずだった憐れな少女の恋を」


 少女はふと瞳を上げた。講堂内に立ち込めていた紫色の霧の内側を、銀色の蜘蛛の糸のように細い光線が巡ったためであった。と、冷気が辺り一面を包むとともに、硝子が粉々に砕かれるような音がしたかと思われた刹那、霧は凍て付き、無数の細やかな雪片と化して、音を立てて床に散らばり落ちた。


 暗闇の中央で、雪片の光を受けて長い金色の髪がきらめいた。白い外套マントは舞台を照らすライトの光を集めて輝いた。観客席にあってもなお、少女は舞台の上の人物さながらであった。


 その姿を認めた舞台の上の少女は微笑をそのままに、瞳を異様に輝かせた。


「ふふ……さすがにこれしきではくたばりませんわね」

「くたばりぞこないは貴様の方だ、芙蓉。なぜお前がにいる」


 アイスブルーの瞳は静かな怒りを湛えて舞台の上の少女を、否、芙蓉を見据えていた。


「出ていけ。香苗のなかから」


 芙蓉はラベンダー色のジュリエットドレスの裾を揺らしながら笑みを歪めてみせた。


「気にいりませんの?この娘のことはさほど気にかけていないと思ってましたけど。かわいそうに、この娘がどれほどお前を想ってもお前は振り向きもしなかったじゃありませんか」

「黙れ」

「もっとも、そのおかげでわたくしはこの娘の身体を手に入れられたわけですけれど。この娘が強く強くお前のことを想っていたおかげで。この娘の愛、わたくしの憎悪、お前に対する執着がわたくしたちを結びつけたのですから」

「黙れと言っている……!」

「ふふ。それに、見知った顔の方がよいじゃありませんか……どうせ殺されるのなら」


 芙蓉は白虎を見下ろしながら右腕を観客席の方へとすっと伸べた。その動きを受けて白虎は袴の腰にいていた剣を抜いた。桐一葉きりひとは――全てのものをむなしくすることからそう名付けられた――の葉は雪原にうち出でたがごとき閃きを宿した。袖が捲れてむき出しになった芙蓉の(いな、香苗のと言うべきだろうか)のただむきと桐一葉の刃は、その一瞬、同じ白さで向かい合っていた。


 芙蓉の微笑みが歪むとともに腕の白さが濁った。観客席にいる白虎からは見取れぬ些細な変化ではあったが。少女の皮膚は濁り、静脈の色と汚れた血の色を透かしたのちに幾匹もの薄色うすいろの蝶となってはらはらと飛び立った。


 白虎は目を細めた。飛び立ったばかりの蝶たちはたちまち宙に凍てついて砕かれた。


「貴様の毒は効かない。私の風は全てを凍てつかせる」

「……まあ、なんと残酷な」


 砕かれた蝶の破片を両手に受けて、芙蓉は大仰に首を振った。


「これでは世界が凍えてしまいますわ。白虎、お前はこの娘が凍え死んでしまってもいいというの?」

「香苗は殺さない」


 白虎は澱みなく言い返した。


「……だが、貴様を倒すために犠牲が必要だと言うのなら、私はそれを厭わない。たとえ香苗であろうと私は立ち塞がるものを切り捨てる」

「有言実行、と申しますわ。そう言い切るからには試してみなさい……北条院香苗の身体をばらばらに切り刻むといい。その果てにお前はきっと……」


 芙蓉の言葉は不意に途切れた。風は突如として鋭い氷の刃となって唇を切りつけたためであった。玉虫色に輝いていた唇はたちまち鮮血の紅に染まった。


 赤く濡れた唇から「ああっ!」と悲鳴がこぼれて芙蓉は血にむせぶ。風の刃が今度はその全身に切りかかったためであった。ジュリエットドレスが切り裂かれ、白い皮膚がのぞくとともに、ラベンダー色のベルベット地に黒く重たく血は滲んだ。痛みに悶え、倒れかけた芙蓉は、床からそそり立つ氷柱から急ぎ右頬を庇って胸を貫かれた。舞台の上で芙蓉が身をのけぞらせるさまは、舞台を照らす眩すぎるライトがその色を掻き消してしまったせいで、暗い観客席から見ると東南アジアの影絵芝居のようにも思われた。観客にとっては、動きも、悲鳴も、全てが大げさであった。


 白虎はフッと笑った。


「有言実行、だ。芙蓉、貴様の思惑ははずれたな。香苗の身体を利用すれば私がためらうとでも思ったか」

「い、いいえ、まさか……!」


 芙蓉は苦しげに笑みを浮かべながら、恨めしげに白虎を睨んで、息も切れ切れに答えてみせた。


「……まさかお前が心までけだものに墜ちただなんて、思いもしなかったのですもの。、白虎」

「好きなだけわめくがいい。かくいう貴様は獣にも劣るのだから」

「白虎、この娘を死なせたら、お前は永久とこしえに呪われるでしょう……でも、そんな不幸でさえも、わたくしはお前に許さない……!」


 ただのこけおどしに過ぎない。だって、胸を刺し貫かれて、今更逃れられる術もないのだから。いくら芙蓉と言っても生身の娘の身体を借りている以上、もし氷柱から我が身を引き抜けば出血多量で死ぬ。白虎は凪いだ瞳の底にそれだけの考えを巡らせながらも、剣を構えた。金色の髪が氷のような風にかすかに揺れはじめる。ふと思い出したのは、いつしか白崎邸で玲子の手を取ってつぶやいた言葉。



『私たちだって潔癖ではいられないのかもしれない。これまで頼みにしてきたこの魂の純潔をも汚さねばならないのかもしれない。それでも私たちは前に進むしかない。立ち塞がる者を切り捨てるしかない……』



(そうだろう、玲子?君が純潔でないと言うのなら私だって汚れてみせるさ――ああ、私はその覚悟で戦場ここに来たとも。本当さ、本当なんだ、玲子……)



君が、かつて…………


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