10-2 「今すぐ講堂に来てくれ」

『玲子』


 奈々に車椅子を押され、水仙女学院高等部校舎へと向かう道を進んでいた玲子は静かに目を見開いた。白樺に挟まれた道の両脇には食べ物やら花やら手作りの可愛らしい品を売る露店が並び、群れ集った人々の進みは鈍かった。玲子は聞こえてきた声が、この人混みのうなりのなかから投げかけられたものではないとすぐに悟った。


『……白虎?』

『今どこにいる?』

『学校よ。奈々も一緒にいるわ』

『なら好都合だ。玲子、奈々、今すぐ講堂に来てくれ。芙蓉がまた現れた。生徒の身体に憑依して』

『……わかったわ』


 風を頬に感じた瞬間、人々とすれ違う速度がほんの少し速くなった気がした。もう奈々の方を振り返る必要はなかった。ただ、こんな悠長な歩みでは間に合わない。玲子は車椅子を押している手に触れた。


「玲子さん」

「奈々、先に行って。講堂は高等部校舎の西にあるわ」

「う、うん。でも、玲子さんは?」

「大丈夫よ、すぐに追うから」


 そう言いながら、玲子はすでに携帯電話を取り出していた。柏木を呼ぶのだと、奈々にはわかった。その方がいい――この人混みを車椅子で掻き分けていくことは不可能だし、奈々は舞や柏木のように玲子を担ぎ上げていく腕力はない。


 人混みのなかから甲高い少女の悲鳴が上がった。二人がさっとそちらを見遣ると、毒々しい角を持った巨大な山羊のような単眼の怪物が、宙に飛び上がり、露店のテントを踏みつぶして着地したところであった。露店の少女たちは間一髪で逃げ出した。


「あれは……!」


 鈴を掲げかけた奈々の手を、玲子は軽く握って押しとどめた。


「行って、奈々」

「でも……!」

「あの怪物は私の銃でも始末できる。芙蓉との戦いにはあなたの力が必要よ。だから急いで」

「……わかった」


 しっかりとうなずいた奈々の後ろ姿は玲子の隣をすり抜けた人混みのなかにたちまち消え失せた。その時、ちょうど電話がつながった。二言三言を交わしつつも玲子は右手に構えた銃の先を、こちらの姿を捉えて再び飛び上がった怪物に向けた。


「急いで……祭りの余興で済ませられるうちに」


 放たれた銃弾は怪物の頭を果実か何かのように粉々に打ち砕いて飛び散らした。しかし、そんな光景も人々の心を狼狽させることはなかった。人々は続々と現れて彼らを取り巻き、凶悪な口で襲いかかる怪物から逃れるのにすでに手一杯であったから。玲子は眼鏡の奥で目を細めた――ひとりでどれほど仕留められるかしら。こんな時に、私に変身できる力が残っていれば。


(でも奈々をここに留まらせるわけにはいかなかった。奈々は白虎の元へ向かわなければ……白虎の手が汚れないように)




「そういえばさ、前も水仙女学院ここで敵と戦ったっけ……!ねっ、こまちゃん?」


 奈々はすでに玄武となっていた。白樺の林のなかを、玄武の隣を滑るように進むのは玄武の相棒の大蛇、『こまちゃん』こと木守こまもりである。返事の代わりに、木守の白い鱗が木漏れ日を反射してちかちかと光った。


「あの時はルカさんを探しにきたんだった。でも、ルカさんはあたしたちに会ってくれなくて、結局芙蓉を倒したときにやっと参上したんだよね。しっかし、なんで芙蓉なんかがまたよみがえるかなぁー?前も首だけになっても飛びついてきたからびっくりしたけど。あれ、昔お兄ちゃんが話してくれた酒呑童子の話みたいだったね、こまちゃん」


 高等部校舎の西へ――御空色みそらいろの屋根を負った白亜の講堂が見えてきた。さっすが私立、と口をすぼめたのも一瞬、玄武のマホガニー色の瞳が絞られた。あそこに芙蓉がいるという四神の直感だった。


 おぞましい鳴き声が響き渡り、玄武は間近の白樺の梢へと視線を移した。獣のような被毛を持った化鳥けちょうが鶴のような嘴をめいっぱい開いてわめいていた。玄武の視線に気づいたのか、鳥の首がくるりと回転して、嘴の裏側にあるたったひとつの黄色い眼がこちらを睨んだ。化鳥は飛び立って降下してきた。


「こまちゃん!」


 玄武は木守の胴の上にすばやく飛び乗った。まっすぐに突き進む木守の動きが緩まないのを確かめたあとで、玄武は襲いかかってくる怪物に向かって弓を引くように手を構えた。怪物の姿はただ黒い影とばかり見えるだけ、ただその翼が風を切る音が低く聞こえてくる。と、玄武の掌より小さな白い花をつけた蔓が伸びて、弓と矢の形を模した。


 怪物の嘴が陽光を反射するその光を瞳に浴びて、玄武はこちらへ降下してくる音に向かって、拮抗する音は放った。その瞬間、蔓に咲いた白い花は落ち、弓矢は本物の弓矢と化した――この神渡かみわたしこそ、玄武の愛用する武器であった。


 鳥の影が地に堕ちたことを認めて、玄武は木守の首に手をかけながら講堂の方を振り返った。講堂の扉の前には腕章をつけた女学院生が二人ほど立っている。文化祭実行委員の生徒だ。彼女たちが扉の開閉係なのだろう。彼女たちの隣には上演中のプログラムを示した看板が掲げられている。今は「高1S組 ロミオとジュリエット」が上演中のだと、玄武は知った。


 弓を抱え、白い大蛇を従えている玄武が二人の前に到着すると、少女たちは目を点にして固まったが、玄武が扉に手をかけると慌てて止めた。


「す、すみません、上演中は入場できないんです……!」

「上演なんかしてないと思うけど……!」


 玄武がそう言った途端、講堂の内側より突如として強風が吹きつけてきて、講堂の窓硝子が音を立てて一斉に割れた。降りかかってくる破片に怯え立ちすくむ女子学院生を、玄武は本能的に抱きかかえて庇った。


 玄武の身は、木守の硬い鱗が守ってくれた。「こまちゃん、ありがとう」と玄武が微笑むと、木守は賢そうな黒い目をしばたかせて首をかしげた。その間にも、講堂内で何があったものかと驚いた女子学院生は扉を開こうと奮闘しはじめていた。


「あ、開かない?!どうして……?鍵は絶対かかっていないはずなのに、一体なにが……!」


今度は玄武が扉を開こうとする手を止める番であった。自分が中を確かめてくるからひとまずここを離れるように、ここは危ないから、口早にそう言って、玄武は木守が首をもたげて示す方を見上げた。割れたばかりの窓のひとつがそこにあった。


 木守と目が合って、玄武は木守が言わんとしていることがわかった。窓を指さして、幸いにもまだその場を立ち去りかねていた女学院生に玄武は尋ねる。


「あの窓の向こうってどうなってるの?」

「向こう……?」

「つまり、あの窓までよじのぼったら中に入れるかってこと」

「えぇ、あの窓の向こうは二階席になっています。ですから、窓までたどり着ければなんてことないでしょうけれど。でも……」


 確かにその通りだ。たどり着ければなんてことない。でも、地面から二階席の窓までは白亜の壁がそそり立っているだけで足をかける場所なんてどこにも見当たらない。顔を見合わせて心配そうにうなずく女学院生をよそに、玄武は神渡の本弭もとはずで地を撃った。唖然とする少女たちの顔を聳え立つ一本の大樹の影が覆い隠した。


 玄武は思わず得意げに笑って言った。


「よしっ、木登りってわけね」



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