9-5 「ようやく戻ってまいりましたわ、漆さま」


「私のたったひとつの恋は、たったひとつの憎しみから生まれたのね」



 生徒会長・白崎ルカは用意された特等席に腰を下ろし、脚を組んで、学園の王者たるものの悠々とした貫禄を醸し出していた。ホールの二階席に腰かけていた者のなかには、舞台で演じられている演劇よりもこの男装の麗人に見惚れて始終オペラグラスやらカメラやらをそちらに向けている者もあるほどだった。この学園でただ一人、ルカだけが纏う純白の学ランは上演中の暗闇のなかでことに目立ったのだ。


「まあ、あれが例のチェリストの……」

「まるでモデルさんみたいね」

「ロシア人の血が入ってるだけあるわよね。きれいだわ」


 生徒の保護者だったのか。すれ違いざまにひそひそとささやき交わす声をルカ自身も聞いた気がする。


「ああいう服を着てると本当に男の人にも見えるわね」

「あの子、一度もスカートを履いてきたことがないそうよ」

「あら、どうしてなの?」

「知らないけれど、うちの娘が言うには心が男性なんですって」

「ああ、……」


 違う……ルカはひとり眉をひそめた。舞台の上ではティボルトとマーキューシオが剣を交わしている。小道具の剣の刃がぶつかりあう音が絶え間なく響く。


 この心は男ではない。女である自分を受け容れられないわけでもない……少なくとも今の自分は。女しか愛せぬこととも関係がない。確かに一度は前世からの恋に思い悩み、男となれば渇望するものもたやすく手に入れられるような気がしていたけれど。そして、男になれば、母を、父を、皆を慰められるような気がしていたけれども――白崎ルイから白崎ルカになれば。


 だが、制服のセーラー服が嫌いなことと、あの秋の日だまりのなかで起こった悲劇はそもそも無関係だ。あの時、ルイもルカも七歳だった。白崎邸のバルコニーには金色の日の光が溜まって、ルイとルカの髪の色もその光のなかに溶けあっていた。髪ばかりではない。ルイもルカも笑いあい、子犬のように転がり合って、もうどちらがどちらという区別もなかったのだ、あの時は。まるで彼らの存在そのものが光に溶けてしまったかのように………………



 ロミオとジュリエットが初夜を明かし、後朝の別れを惜しむ場面で、ルカの意識はようやく舞台の上へと戻ってきた。香苗演ずるジュリエットが寝台の上でロミオを口説くさまは、清純ながらに散らされた花のようななまめかしさをも感じさせる。台詞も所作も控えめであったが、思い詰めた少女の狂熱を滲ませて見る者の心に憐れを掻き立てた。ロミオを演ずるのは舞の姉ということで、ルカも興味を抱いて見ていたが、彼女は正統派の役者のようで、誰もが思い描く「理想のロミオ」をそつなくこなしていた。舞台映えするスタイルの持ち主であるので見栄えの点でもジュリエットに決して劣らなかったし、すぐれた安定した演技を見せてくれるためになかなか好感が持てる。今こうして別れを惜しむロミオとジュリエットを見ていると、演劇を見ているというより、本物の恋人同士の惜別を見せられているような気がしてきて、ルカは思わず苦笑した。



『私、戻らない。紫蘭さんと一緒に行くって決めたんだから』



 ふと、抱擁するロミオとジュリエットの姿に、若い恋人たちの姿が重なった気がして、ルカははっとする。紫蘭と京姫もまたロミオとジュリエットのごとき危うい恋の導きのままに手を取り合い、共に崩れ落ちていった……いいや、違う。ロミオとジュリエットは死を共にするほどに愛し合っていたのだから。紫蘭は京姫を突き放した。紫蘭は自分を追放した京への腹癒せのために少女の恋心を利用したにすぎないのだ。紫蘭自身がそう語っていたし、ルカもそれを疑ったことはない――だが、紫蘭はひとかけらの愛情も京姫に対して抱いていなかったのだろうか。


 きっと結城司のなかになら「答え」があるのだろう。前世の記憶を思い出した今の司には。結城司は前世の記憶を思い出す必要があったのだと、玲子は言った。それが漆を倒すためには必要なのだとも。


 結城司が記憶のなかで見つけ出した「答え」とは何なのか。その「答え」を抱えて、結城司という人間はこれからどう行動するのだろうか。それが自分たちに、舞に、どのような影響を…………



 舞台の上にはいつの間にかジュリエットひとりが佇んでいる。ジュリエットの寝室の場面だ。小瓶らしきものを抱えたジュリエットが蒼白な顔をして寝台の周りをうろうろと回っているところを見ると、いよいよジュリエットがかりそめの死の薬を口にするところであるようだ。この場面にくると、香苗の演技はいよいよ迫真のものとなってきて、暗闇に群れ集う無数の観客の誰もが、固唾をのんでジュリエットの台詞に耳を傾けていた。


「ああ!あそこにティボルトが!」


 あらぬ方向を向いて狂乱したジュリエットが叫ぶ。この後の台詞はどうであったかと、ルカは記憶を手繰り寄せた。ちょうど薬を飲む直前に放つ台詞。そうだ、確かこんな台詞だった。



 ――ロミオ、ロミオ、ロミオ!今行きます。これを飲んで、あなたの元へ。



「漆さま、漆さま、漆さま。今行きます。これを飲んで、あなたの元へ……」



 ジュリエットがぱたんと寝台の上に倒れ込む。ただひたすらに舞台の上へ向けられていた観客の心が突如として足場をくずされ、不穏なざわめきが波のように起こった。ルカでさえ何が起こったのかわからずに呆然としていた。


 と、紫色の霧のようなものがどこからともなく漂いはじめ、花を煮詰めたような香りでたちまちホール中を覆いつくした。かぐわしき霧は、人々が慌て立ち騒ぐ声をも吸い取り包み込んでしまうと、やがて人々の意識さえをも奪い去ってしまった。霧のなか、ある者は通路に、ある者は座席の上に、倒れ込みあるいはもたれかかってそのまま立ち上がる力を失った。


 スポットライトに照らされた舞台の上だけが霧の向こうに透けて見える。寝台の上で少女の影が起き上がる。かりそめの死の薬を飲んで四十二時間の眠りに落ちたはずのジュリエットが。それはもはやジュリエットでもなく、北条院香苗ですらなかったのだが。


「ふふ。ようやく戻ってまいりましたわ、漆さま」


 放たれて長くなびく少女の薄色の髪。そのひとすじをくわえて歪んだ唇は玉虫色に輝いていた。

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