9-2 貴女へ


 私がかのひとの気持ちに応えられなかったのは、他でもない。かの女が父の仇の娘であったから。かの女の父親を、私は殺さねばならなかったから。それだけだ。


 そうだ、それだけだった――もしそんな事情さえなければ、私はあの女を思うさま抱きしめて二度と手放さなかったかもしれない。私の心はどれほど揺れ動いていただろうか。きぬを透かして輝くほどであるというあの女の眩いばかりの美しさに。私を見詰める瞳に。高貴な甘い微笑に。私は胸の高鳴りを覚えた。仇を討つという悲願のために乳房を削いでしまった、この胸には醜い傷跡が毒沼のように黒く広がり、皮膚は乾き縮れこわばって、触れるなにものを感じられなくなってしまっていたというのに。私はその内側に芽生えたものを感じた。そして、かの女が人目を忍んで私の元へやってきたとき、この胸についと寄せられたかの女の胸が恋を知り初めて高鳴っているのを感じた。それはかの女の内奥に触れるよりも甘美な愉悦を私に与えたのだった。


 ゆえに、私はかの女を拒んだ。かの女の恋を受け容れれば、私は目的を果たせなくなる。それでは父上に申し訳ない。父の死後、自ら命を絶った母上に申し訳ない。この旅の途中で亡くなってしまった兄上に申し訳ない。


 本当は何よりもかの女に申し訳なかったのだ。私の名は、かの女が鈴のような声で何度も口ずさんでいた瑠璃ではなく瑠璃なのだから。そうだ、私はかの女を抱き寄せられなかったもうひとつの理由は、私は女であるから。それをあの女には隠し続けていたからだ。



 ……許してください、衣姫さま。私は私の恋人にはなれない。その代わり、私はあなたの父を殺したあなたの仇となりましょう。愛憎は紙一重だとかつて聞いたことがあります。私はあなたの愛を受け容れられぬかわりにあなたの憎しみに応えましょう。あなたの憎しみの前にならば、私はたやすくまろび、にひぢつ泣きましょう……



 ――そう思った私は愚かだった。私はかの女の想いを軽んじていたのだ。怒り狂い龍となったかの女の姿を前にしても、私はかの女の想いに気づけないでいた。全てを知ったのは私の肉体が此岸において何の意味もなさなくなった時。私もまたかの女の一部となったときだった。


 かの女は私を想って龍になったのだ。そう思ったとき、私は激しい苦悶とともに、激しい悦びをも覚えた。しかし、私はすぐに知らなければならなかった。かの女が私を憎んでいるということ、すなわち、瑠璃を愛しても瑠璃を憎んでいるということを。かの女は私への想いのために龍になったのではない、私への嫉妬のために龍になったのだ。


 嫉妬などしなくてよいのだという私の声は、かの女の暗闇に吸い込まれ消えてしまった。私の呼びかけは水底に眠るかの女には届かなかった。幾千の水草をしとねとし、幾万の水泡みなわに守られて、かの女は夢を見続けていた。後世の人々が語り、信じた通りの自分の姿を。私にはなにもできなかった。ただかの女とひとつになる快さに、身を任せるほかなかった。それが私のたったひとつの安住、たったひとつの償いだったから。



 ふとある時、夢の浅瀬で聞いた気がした。「恋を叶えよ」という声を。人々の信仰を糧に現世によみがえり、瑠璃丸への恋を叶えよと誰かがささやきかけた。私は何も思わなかった。ただそうしなければと思って、再び眠りの底へ沈んでいった。眠る私を取り巻く水と花がかすかに揺れていた……そして、目を覚ましたとき、私の髪は縹色はなだいろに、私の衣装はかの女のものになっていた。じゃの面が与えられた。にも。



 今、かのひとの荒ぶる魂は清き桜の力によって鎮められ、私もまたかの女から剥がれ落ち、消え去ろうとしている。この最期の瞬間、私は瑠璃丸として消えようと思う。なぜって、私は九頭龍だったのだから――恋を叶える神であったのだから。幾百年の年月、かの女とひとつであったという僥倖の証として。



 ――衣姫さま、衣姫さま。



  眠っているかの女のみたまの上に屈みこむ。



 ――おや、その声は……



 ――瑠璃丸でございます。さあ、衣姫さま、この百合煎の地を去る時が参りまし た。共に参りましょう。



 ――しかし、いずこへ?



 ――ここから遠いところへ。とても静かなところです。私たちは夫婦めおととして、そこで二人だけで暮らすのです。



 ――左様ですか。



 かの女が微笑んだ気がした。風にさえ吹き消されそうな私たちには表情などもはやないのだけれど。



 ――これからはもうお側を離れませぬ。瑠璃丸はいつまでも衣姫さまと一緒におりますから。



 ――嬉しゅうございます。しかし、瑠璃丸さま、ひとつお尋ねしとうございます。



 ――何なりと。



 ――いいえ、やはり急がなくてよいのです。これからはいつまでも一緒にいられるのなら。でも、どうか……あちらに着いたら教えていただけますか。を。






 ……気がついたとき、青木翼は地面に足を投げ出した状態で、半身を京野舞に抱き起されていた。舞がぺちぺちと翼の頬を叩きながら何度も名前を呼ぶのが聞こえてくる。ぐったりと疲れた目で友人を見上げると、舞はほっと安堵の表情を浮かべた。


「翼、よかった!」

「舞……」


 ああ、あたし、助かったんだ。そうだ、京姫が助けてくれたんだもの……まだぼんやりとしながらも翼はしゃがみこんでいる舞の膝を押して立ち上がった。足元はややふらつき、締め付けられた首のあたりに鈍い痛みはあったものの、大きな怪我はないようである。「翼、大丈夫?」と尋ねる舞にうなずきを返すと、翼は少し咳き込んでからかすれた声で尋ねた。


「……佐久間さんは?」


 舞が答えるより先に、翼は地面の上に寝転がっている少女の姿を見出した。もう例の仰々しい衣装は身に着けていない。般若の面もない。流れる黒い髪にはくるくると結び癖がついていて、懸命におしゃれをしていた姿を偲ばせた。美香とは格別親しかったわけではない。それでも好感は抱いていた。ずるいと、消えてしまえばいいと、そう言われた今になっても変わらない。どこかほろ苦い感情が加わるのは否めなかったけれども、美香に対して、決して不快ではない、切実な親しみとでもいうべき感情が込み上げてくるのを翼は感じていた。


(あたしだってあなたが羨ましいよ、佐久間さん)


 静かに胸を上下させている美香を見つめながら、翼は胸中語りかける。


(恭弥と一緒にサッカーができるあなたが。あいつが夢中になっていることを共有できるあなたが。玄関先で喧嘩して、あいつが飛び出ていったさきには、あなたがいるんだもん……)


 美香をじっと見つめている翼の姿に、舞はなにかを感じ取った様子だったが、口には出さなかった。翼も何も言わないことにした。


 二人はともに夜空を見上げる。東京ではお目にかかれないような――なにか悲しくなるほどにすさまじく、美しい星空が、湖の上いっぱいに広がっていた。まるではるか彼方、宇宙のどこかでそそっかしい誰かが銀の宝冠を砕いてしまったかのような、取り返しのつかないような、途方もないような感じが、少女たちに降りかかってくる。同じような感傷を前世の人々も抱いたに違いなかった。玉藻国の神話は、星々はこの世を見捨て離れていった先の世の神々の、最後の姿なのだと伝えていた。


いにしえの神々は、暁に消え残る、かの星々。残されしこの身は一人、君を恋ふ……」


 二人の唇から同じ歌が流れだす。旋律と言葉とはぶつかりあい、堰き止められたが、少女たちの胸には源を同じうして、豊かな湖がひろがりつつあった。二人は黙って瞳を交わした。


「……ありがとう、舞」


 藤棚の下での舞の言葉の意味も今ならわかる。翼が傷つかないように必死になって焚きつけてくれたそのことへの礼であった。きっとそれが通じたのだろう、舞は目を閉じて静かに首を振った。


「ごめんね、翼。私、どうしたらいいかわからなくて……」

「そんなのあたしにだってわからないよ。でも、恭弥とのこと、どうしたいのかは考えなくちゃね、真剣に」


 笑って言いきってから星を見上げ、少しためらって、


「……あたし、舞と結城のこと忘れてたの。舞は前世のことだけじゃなくて、自分の経験から言ってくれてたのにね。幼馴染だった結城が、ある日急に幼馴染じゃなくなっちゃったこと。いつか想いは通じるだなんて、そんな保証どこにもないんだって」

「私のことはもう終わったからいいの……でも、やっぱり翼の恋は応援したいから」


 そう言って舞は優しく微笑んだ。その言葉に偽りはないのだろう。でも、本当にいいのだろうか?「もう終わった」ことにしてしまっても。


「結城が変わっちゃった理由、玲子さんに聞けたの?」


 尋ねると、舞は再び首を振ってうつむいた。


「聞いたほうがいいのか、聞かないほうがいいのかわからないから。もう全部終わったことだもの。私は結城君を前世のことから解放してあげたい。結城君は忘れていいんだよ。前世の苦しかったことなんて、思い出す必要ないもの。私とのことも、ぜんぶ……」

「本当にそう思うの?」


 舞は瞳を揺らして何も答えない。そうだ、どこへ進むべきかわからない恋がここにもあるのだ――そう、ここにも。翼のなかにも。眠っている佐久間美香のなかにも。


 どうなるかはわからないし、どうすべきかはもっとわからない。答えは今宵のうちには出ないだろう。ならば、今するべきことはひとつだ。翼は舞の肩をぽんと叩いた。


「さっ!帰ろう、舞」


 翼はひとつ大きなあくびをした。急に眠くて仕方がなくなってきた。一刻もはやく布団に潜り込みたい。ところで今は何時だろう……もう就寝時間を過ぎていたとしたら、先生たちに叱られそうだけど、気づかれずに部屋に戻れるだろうか。

と、翼はあることに気がついた。


「舞」

「なーに?」


 舞は美香を抱き上げようと身を屈めているところだった。翼は立ち上がった舞に湖の対岸を示した。


「宿、反対にあるんだけど……」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る