9-3 北条院香苗の日記(九月十八日 土曜日)


 貴人あてびとの家に侍女まかたちとして仕えはじめたわたくしがどのような日々を送ったかですって?申し上げるほどのことはございませんわ。


 わたくしが憧れてやまなかった、雅やかで華やかな世界。そこでは甘い蜜の中に一滴の毒を垂らし、かぐわしい香で身をいぶり、錦の紐でくびり殺すような、そんな行為がいともたやすく行われていたのでした……えぇ、本当におぞましかった。だからこそ、わたくしは悟ったのです。この世界こそまぎれもなくわたくしの世界であると。


 わたくしが仕えていたのは卯木うつぎの宮と呼ばれていた親王で、これはかの澤瀉帝おもだかていの弟宮、松枝帝まつがえていからすれば、年下ではありますけれど、叔父上にあたる殿方でした。わたくしが仕えていた当時の卯木の宮はまだ年若く、肌の色が抜けるように白くて、体つきはほっそりと華奢で、まるで女人のよう。美男子であるのにいつも眉をひそめたような表情をしておりましたが、見た目のとおりに気難しい性格をしていて、ひどい潔癖症でもありました。これは女人に関することでも変わりません。自分の姉の子であり、一条某とやらの三の君だとかいうわらびの上だとかいう女人ひとりを妻として、他の女人のもとへは通う気配もございません。情愛が格別濃やかというのではありませんでしたが、お互い何の不満もなく暮らしているようでした。夫は妻がひどく不器量なのも気にかけていないようなのです。世にもふしぎな夫婦めおとでございましたわ。


 ……ねぇ、お許しくださいませ、これはわたくしのたったひとつの欠点だと信じておりますけれど。わたくしはこういう自分では理解できないような人間をみると、どうしてもどうしても、めちゃくちゃにしてやりたいという気持ちをおさえられないのです――あなたはよくご存知ですわよね?月修院でわたくしがどれほどの罪なき処女おとめたちをいたぶり殺してしまったかを……わたくしはすでにこの頃から、悪いを抑えられなかったのですわ、恥ずかしいことに。だって、この上なく美しいわたくしを差し置いて、不器量な妻に満足している男なんて、到底理解できませんもの。こんな男がわたくしには憎らしくて仕方ないのです。もちろん、妻の方はもっとですわ。


 わたくしのたったひとつの失敗はこの憎悪に、破壊の衝動に、身をまかせてしまったことですわ。失敗……?いいえ、のちのことを考えれば、失敗とは必ずしも言いきれませんけれど。


 主人の言いつけを粛々とこなすわたくしは、何かと注文がうるさく、そのくせを何よりも嫌う主人からすでに気に入られておりました。単純な妻は、夫がわたくしを気に入っているというそれだけの理由でわたくしを信じきっておりました。えぇ、この愚鈍な女はわたくしの美貌に対してもひとかけらの嫉妬も羨望も抱かぬようなのでした。それがいよいよわたくしの苛立ちを募らせ、加虐心をそそりました。でも、このことは却ってわたくしには好都合だったのです。


 安心しきっている妻に代わって、わたくしはさらに細やかに、行き届いた世話を主人にいたしました。主人の身の回りについては他の者には決して手を触れさせず、目が覚めてから床に入るまでの世話をすべてわたくしひとりで行ったのです……つまりは甘い蜜で溺れさせたのですわ。そして主人が留守の間に、妻の方に三日の暇を申し出ました。妻はまさか夫がわたくしなしでは生きられぬほどになっているとは知りませんから、言われた通りに暇をやります。


 さて、主人は出仕から帰ってみて、すっかり頼りにしていたわたくしがいないことに狼狽いたします。それでも宮家の誇りがあって、たかだか侍女ひとりのことで騒ぐようなみっともないことはできませんから、わたくしのいない三日をいつも以上に不機嫌そうな顔をしながら、不自由と不愉快とをただひたすら耐え忍ぼうとします。二日間がのろのろと過ぎて、ああ、あと一日耐え忍ばねばならぬのかと、憂鬱のうちに床に就いたその夜、なにものかの気配にふと目覚めてみると(ちなみにこの男は眠りのたいそう浅い性質でした)、他の者たちの至らない世話のあとを、わたくしがひとつひとつ入念に、ことりとも音をさせずに片付けているではありませんか。えぇ、姿は見えずとも嗅ぎなれた香のにおいで、わたくしとわかったはずなのです。


槿きんか」


 とささやく声がいたします。わたくしは手をとめて、ただ静かに「はい」と答えました。


「いつ戻った」

「つい先ほど」

「こんな夜更けにか」

「えぇ……」

「そうか」


 主人はしばらく黙っておりました。再び寝入ったかと思われるほど長い時間でした。わたくしの耳にはどこかでひとりでに床板の軋む音と、隣で寝入っている蕨の上の寝息だけが聞こえます。わたくしもそのまま黙って動かないでおりました。そう、じっと息をひそめて…………


 「槿、どこにおる」という問いかけに、「ここにおります」と心持ち主人の方へと身をにじり寄らせて答えますと、「槿」と唐突にかすれた声が鋭く言って、冷たい手が闇のなかからわたくしの手を捉えました。わたくしははっと息を呑みましたが、冷たく貴く粗暴な手は、お構いなしにわたくしを床に引き入れました。


 主人が名を呼びます。その息がわたくしの鼻先にかかるほどの距離で。わたくしはただ慄き顔を背けようとするばかり。すると、男の手がわたくしの頬を挟んで無理に振り返らせるのです。薄墨色の闇の奥に、いつも以上に青ざめて見える、若い親王の顔をわたくしはかつてないほど間近に見ました。濃く黒い眉はひそめられ、唇や頬のあたりが激しくわなないておりました。


 これまで味わったことのない苛烈な衝動に駆られ、自分でもどうしてよいかわからないように、主人はただ再びわたくしの名を呼びます。わたくしが潤んだ目で見つめ返しますと、つかの間主人は途方に暮れ、それから迷いを押し切るようにして、わたくしを覆い尽くしてしまいました。



 ああ、あの晩は香が強く立ちのぼっていました。なぜかしら……



 かせを外された獣は立ち止まることを知りませぬ。従順であった獣ほど、野を駆けることを知った時の悦びは大きなものですもの。卯木の宮はただひたすらに、狂暴なまでにわたくしを求めました。妻は遠ざけられました。その果てに、わたくしは望んでいたものを得ました――すなわち、宮の御胤おんたねを。


 しかし、それを知ったとき、あの愚かで単純な女は怒り狂いました。女のなかに一向に子を授からぬことへの鬱屈した思いがあることに、まだ若かったわたくしは気づけなかったのです。それに、どれほど夫に疎んじられていようとも、蕨の上は内親王の母と、一条家の後ろ盾とを持っていたのです――えぇ、わたくしは蕨の上に少しも劣っておりませんでしたとも。蕨の上と比べてどれほど多くの才をわたくしは持っていたことでしょう。でもたったひとつ、生まれという点ではどうしてもかなわなかった。そのたったひとつを持っていなかったがために、あらゆる才と幸運を費やしても、わたくしはこの勝負にけたのです。


 蕨の上は実家の力を背後に、わたくしを追い出しにかかりました。よほど妻の実家に厳しく咎められたのでしょう、卯木の宮さえ最後はわたくしを見放したのです。わたくしはいくらかのものを受け取って主家を出ることとなりました。


 いざ主家を出ると決まったその前夜のこと。卯木の宮に密かに呼び出されて庭なかへと降り立ったわたくしは、突如として見知らぬ数人の男たちに囲まれました。そしてあれよあれよという間に取り押さえられると、舌が痺れるほどに苦い、薬のようなものを無理やり飲ませられました。どれほど必死に抗おうとも無駄でした。溢れだした薬が唇を濡らして首を伝い衿元に冷たく染みる不快を、わたくしは最後に感じました……



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