第九話 私のたった一つの恋よ

9-1 「自分の恋は自分の手で叶えるものっ!」

 まわりを取り囲んでいる闇がくずれさり、新しい冷たい闇のなかをひゅーっと落下していく感覚があった。が、それも数秒のことであった。どしん!と背中に衝撃を受けて、舞は濡れた地面に伸びて目を回していたが、「舞!」と叱るように呼ぶ声に目を覚ました。誰かの手が、舞の襟を引っ掴んで乱暴に起き上がらせようとしているのを、舞は感じた。


 目をしばたいてみる。舞は誰かに上半身を無理やり起こされた状態で、湖面に臨んでいた。雨風がぴたりと止んだなかになおも唸りを轟かせるのは龍だった――八つの口で断末魔の声を上げながら、痛みと怒りに悶えるあまり首をもつれさせ、そしていよいよ身動きがとれなくなっていく龍だ。要となっていた首は落とされ、傷口から黒い血がぼたぼたと流れ出し、湖に油のような染みを落としていた。舞は呆然として、ただ九頭龍の最期を見守っていた。


 ふと、舞は浅い息づかいに気づいて振り返る。折しも雲間から姿を現した月光に青玉の瞳を据え、藍色の髪を輝かせた、友の姿があった。


「舞、怪我はない?」


 青龍は横顔のままで尋ねた。


「何があったのか聞きたいけど後にするから。とにかく怪我はない?」

「う、うん、ありがとう……!」


 さすが青龍だ、と舞は思う。舞と篝火が散々に手こずった敵を見事に切り伏せてしまった。そういえば、篝火はどこに行ったのだろう。今や毛玉のように長い首を絡ませ合い、悲鳴を軋ませている龍から目を離して、舞は辺りをきょろきょろと見回した。篝火も美香の姿も見当たらない。


「あれ……?」


 次の瞬間、舞と青龍は頭から水を被った。ついに力尽きた九頭龍の巨体が湖に墜落して、高波のような水しぶきを枯れ果てた湖畔に浴びせかけたのだった。舞と青龍はお互いにひしとしがみついて波に耐えた。しかし、したたかに水に打たれ濡れるその間にも、美香と篝火を案じる舞の不安は決して胸を去らなかった。


 九頭龍は沈んだ。波の引いたあとで、舞はすくっと立ち上がった。夜空は夥しい星群ほしむれのために白くかすみ、月は早くも水面に宿って、湖のほとりを煌々と照らし出していた。水辺の葦原は皆悉く黒く爛れていたが、その枯れ残りがかすかな夜風に揺られてひらめいている。わざわいはおさまったかのように見えた。だが、まだ終わっていないことを舞は直感的に知っていた。


 青龍がかたわらで立ち上がる気配を感じて、舞は目を遠く対岸に投げかけたまま口を開いた。


「青龍、まだ変身を解かないで」

「どうかしたの?」

「わからない。わからないんだけど、でも……」


 変身――そういえば私の鈴はどこにいったのだろう。舞は青ざめる。まさか、九頭龍の体もろとも湖に沈んでしまったのか。もしかして、篝火も、美香も?


「美香!」


 舞は湖に向かって叫んだ。舞の声は湖畔の静寂に響きわたったが、答える声はない。舞は爪が食い込むほどにぎゅっと手を握りしめる。


「美香、どこにいるの?!」

「えっ、なんで佐久間さんが……」

「詳しいことは話せないけど、とにかく近くにいるはずなの!お願い青龍、一緒に探して!絶対、絶対に近くに……」


 青龍の方を振り返り、泣きそうな気持ちを堪えつつ必死に訴えていた舞は、友の肩越しに見たものに言葉を失った。舞の目が見開かれる前から、異様な気配を察してか青龍もすばやく身を翻し、手に持っていた凍解をさっと構える。


 龍明神社の参道の奥から、拝殿の影と石灯篭の火を負って、こちらに向かって歩み来るものがある。九頭龍の姿を銀糸で縫い込んだ袿と錫色の袴を纏った女である。その女の顔は、般若のぎょうであったが、舞は慄きつつも、女の肩にはなだ色の鬢削びんそぎが揺れていないのを認めて目を細めた。女の乱れた髪は、灯籠の灯を受けて藻のごとく黒々となびいてみえた。


「来よ、来よ。水底に来よ……」


 立ちつくす舞の隣から、青龍が駿馬のごとく駆け出した。凍解の刃が闇に銀の尾を引くのを見て、舞ははっとした。


「青龍、待っ……!」


 金属と金属がぶつかりあう甲高い音が境内に鳴り響く。凍解の刃は般若の持つ打杖に弾き返される。掌のなかで柄が跳ねるのを迅速にしっかりと握りなおし、数歩退いた先で刀を構えなおした青龍は、面の奥で低くわらう声を聞いた。


「あんた、衣姫ね……!」


 青龍は顔をしかめる。


なれも恋をしておるな。不毛な恋じゃ……わらわに縋ればたやすく叶えてやるぞよ」


 青龍は一瞬の当惑のうち、鼻を鳴らした。


「余計なお世話よ!あんたなんかに縋らないでも、自分の恋は自分の手で叶えるものっ!」

「そうか。ならばその手で妾を斬り殺すとよいぞよ。この娘もお前と同じ男を恋うておるようじゃ。恋敵は少ないほうがよい。そう思わぬかえ?」


 戯言に耳を貸すものかと敵に斬りかかって、青龍は立ち止まり刀を下ろした。女が般若の面を外したのである。見知った少女の顔は、馴染みの少女の顔は、青龍の知らない艶やかな笑みを湛えて青龍を見据えていた。そして、それは自分より劣ったものを見るときの、憐みと蔑みの入り混じった笑みであった。


「そんな。なんで、佐久間さ……」

「東野恭弥、というのであろう?」


 恭弥の名を聞いて、青龍の身は無意識のうちにびくっと痙攣した。少女の指に頬を触れられても抗えぬのは、それが見知った者の指先であるゆえか。


「この娘も慕うておるぞ、かの少年を。なれに劣らず、いいや、汝よりもずっと深く、強く……いっそ今宵恋心を告げようと思いつめるほどに。されども、最後の最後で臆病風に吹かれた。自らの意気地のなさに呆れ果て、頼るものなき恋の暗闇に怯え、この娘は湖へとやってきた……そうじゃ、苦悶のうちに汝を羨んでいたぞ」


 ふと、少女の声音が変わった。かぼそくすすり泣くような声に。


『青木さんが羨ましい……』


 青龍の瞳は持ち上げられた水盆の水面のごとく、激しく揺れた。


『青木さんはこれまでもずっと東野の隣にいて、これからもずっと東野の隣にいられる。だって幼馴染だから……』


『何があっても幼馴染だったってことは変わらない』


『たとえあたしが東野の彼女になれたとしても、東野にとっての青木さんにだけは、あたしは絶対なれないんだ。その席だけは替わってもらえない』


『ずるい……ずるいよ、そんなの……!』


 少女の頬をつと、ひとすじの涙が伝った。


『きらい。青木さんなんてだいきらい……青木さんなんて消えちゃえばいいのに……!もう世のなかみんなきらい。この恋が叶わないんだったら、この世界なんて、めちゃくちゃに、滅びちゃえばいいんだ……!』

「……ッ!」


 蛇が獲物に飛びかかるように、勢いよく右手首をとらえられた。気づいた青龍が必死にもがき抗おうともすでに遅かった。凍解は地面に転がり落ちた。途端に少女の両腕が青龍の首へと食らいつく。つい先ほどまで涙で濡れていた少女の瞳は月影に瞠られ、獣のごとく爛々と光を漲らせて、青龍の鼻先にまで迫っていた。赤々と燃える唇は狂気の笑みに歪んで耳元まで裂けんばかりとなり、唾液に濡れた白い犬歯がその端からのぞき出ていた。もはや面を被るまでもない。それは般若の形相であった。


「佐久間、さ……っ!」


 を佐久間さんと呼ぶことは憚られるけれども、青龍はかすれる声でそう呼んだ。


「ダメっ、正気にもどって……!」


 こんなこと恭弥は望んでいないから。あなたの想いがあたしに負けず劣らず真剣なものだってことも今なら知っているから。だからこそ、浅ましい化生にまで身を堕とさないでほしい。その想いを利用されないでほしい――こんな切実な願いも、伝えるすべはない。


 涙のせい?それとも酸欠のせい?佐久間さんの顔がぼやけているのは。抵抗しようとする手にも力が入らない。まったく、舞は何してるのよ。早く助けなさいったら……ああ、ダメだ。もう痛みも苦しみも感じないもの。ふっと体が軽くなった感じがして。それから、幕が下りるみたいに、目の前が暗くなって…………



 ああ、そうだ。確か前世で死ぬときも、こんな感じだった気が……



桜花爛漫おうからんまん!!!!』



 舞い散る桜の花弁のなかに、青龍は膝を突いた。やわらかな風が吹きつけて背中を撫ぜる。ああ、温かい。心地よい。この風に意識を任せてしまいたい……




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