第七話 トライアングル

7-1 北条院香苗の日記(九月十七日 金曜日)

 わたくしが売られた先は裕福な商い人の家でございました。京の西あたりでしたかしら。あのあたりには立派なお邸が立ち並んでおりましたから。いずれにしてもそれまでのわたくしには縁のない場所でした。


 その家の実質的な主は、五十は越えようかという老人でした。すでに月に仕える身でありながら、主である息子がまだ若く頼りないということもあり、宮中にも顔が広く一度すすった甘い汁が忘れられないということもあって、なかなか俗界と縁が切れないようなのでした。要は不届きものですわ。この老人には三人の息子と二人の娘がおりました。娘たちの方はすでにどこかへ縁づいてお邸にはおりませんでしたが、当主とは名ばかりの長男をはじめとして息子たちはお邸のなかで妻や子と共に暮らしていました。


 はしためとして売られたわたくしは、最初こそ逃げ出そうとも考えましたけれど、少なくともここにいれば屋根の下で眠ることができ、その日の飢えに苦しむこともありません。決して楽な境遇ではございませんでしたが、後にお話するようにそれも段々とよくなってまいりましたので、しばらくはこの身分に甘んじることにいたしました……ひどい落ちぶれ方ではありましたが。貴人あてびとの血を引くこのわたくしが、商い人の家の婢となったのですもの。それを思い出しただけでも屈辱に身が震えます。


 確かにその家での最初の生活はひどいものでした。婢たちを監督していた年増女が――これまた正視に耐えぬほどに醜く太った女なのでしたが、性根のほうもよほど歪んでいたと見えて、何かにつけてわたくしをいじめるのです。わたくしはだんだんと寒くなる秋の夜長を冷たい水に手を浸しながら一睡もせずに過ごすことがありました。女は一番辛い仕事を年少のわたくしに押しつけて喜んでいたのです。そんな様子を見ても、この家に仕える女たちのなかには、誰一人としてわたくしを助けようとする者はいないのでした。男たちはいくらか親切でしたけれども、それも下男たちが投げかける卑猥な冗談を笑ってやり過ごせばの話でした。


 ……えぇ、これというのもすべて母が身を誤ったせいですわ。



 けれども、ほどなくしてわたくしの美貌は年老いた主に目を留まりました。この老人は大変好色で知られていました。まさかまだ十にもならないわたくしをどうするというわけでもありませんでしたが、幼いうちから目をかけておいてそのうちにというぐらいの下心はあったのでしょう。そして、いずれ自分の相手をさせるのならば一通りの教養をつけさせておこうとでも思ったのでしょうか。手習いからはじまって、学問や芸事やらと色々と仕込みはじめるのですが、わたくしも決して素地が悪くはないのですもの。老人の期待する以上の才を示しました。老人が大変驚き、喜んだことは言うまでもありませんわ。


 老人はわたくしに夢中になりましたわ。自分のそばにおいて朝から夕まで片時も離しません。その生活の全てがわたくしのために費やされるようになりました。そうなると、わたくしももう婢という身分ではございません。老人を思うがままに操るのはあまりにもたやすいことでした。そこで、かつてわたくしを不当な目に遭わせた者たちは皆報いを受けることとなりました。一方で、当の老人は操られているとは知りませんから、はたの者が時に眉をひそめるほどにわたくしをひいきにして、この子の行く末が楽しみなどとにやにや笑っておりました……えぇ、いやらしい老人ですわ。

 


 ――やがてわたくしも十四になりました。老人が待ち望んでいた時がいよいよやってきたということになるのですが、そのころから老人は病に伏すようになりました。もちろんその世話をするのはわたくしです。老人は気難しくなってわたくし以外の者を枕元に近づけようとしませんでした。数十年連れ添った妻が見舞いにきても口汚く罵る始末ですから、見苦しいことこの上ございません。


 ……と、父の寝込んでいるのをよいことに、この老人の三人の息子たちがわたくしになにかと言い寄るようになりました。三人はわたくしがひとりでいると、代わる代わるやってきて、わたくしを口説こうといたします。たとえば、あるうららかな春の日のこと。わたくしが看病の疲れを癒すために、庭の林檎りゅうごうの樹の下に立って、白い小さな花たちに見惚れていたときのことです。兄弟たちのいずれかは忘れましたが、とにかくそのうちのひとりがどこからともなく忍び寄ってきて、わたくしを後ろから急に抱きすくめるのです。「まあ」と恥じらいつつ逃れようとするわたくしの手を兄弟は図々しくも握りしめて離しません。そのまま唇を寄せようとする男から必死に顔を背けるわたくしをなだめつつ、この無粋者は次々と、必死に甘い言葉をささやきかけます。


「ああ、槿きん(婢であったときのわたくしの名前です。厭わしい名。あなたが新しい名を与えてくださって本当によかった!)、お前はなんて美しいんだ。考えてみれば、父のような老いぼれひとりがお前を独り占めしているのはおかしいじゃないか。なぜ俺のものにならないんだ?俺のものになれ、槿。俺の方がお前をずっと可愛がってやれるのだから……おい、どうして俺の言うことを信じない?前から言っているだろう、もしお前が俺の子を産んだら、今の妻と子どもは追い出してお前ひとりを妻にすると。ほら、お前の欲しいものはなんだってあげるから、何が欲しいか言ってごらん」


 その時言われた言葉でしたかしら、これは……?いずれにせよ、言うことは皆同じですから変わりないでしょう。ああ、浅ましい男たち!でも仕方ありませんわ。わたくしは少女おとめからひとりの女人へと変わりゆくころでした――そうですわね、ちょうどさなぎが蝶となり飛び立つところでした。その時のわたくしは、卑しい男たちの目にどれほど蠱惑的こわくてきに見えたことでしょう……えぇ、あなたにとっては物足りないわたくしであっても、ですわ。



 兄弟は最初こそ競争心を押し隠していましたけれど、焦りのせいでしょうか、次第に表立っていがみあうようになりました。すると、元からわたくしというものが気にくわなかったうえに、ついに事態を見かねた老母が病人に告げ口いたします。大方、あの娘は性質たちが悪いから早く追い出すべきだとでも言ったのでしょう。


 病人はどういうつもりであったのでしょうか。片時もわたくしを手放したがらなかったにもかかわらず、わたくしにいとまをやることに承知したのです。自分の亡き後に(このころには病人の具合は相当悪くなっていたので)自らここまで仕込んだわたくしを息子たちに奪われてはたまらない、とでも思ったのでしょうか。老いたる者の、若人わこうどへのあてつけであったのでしょうか――いずれにしても、わたくしには親心とは思えません。それが証拠に、わたくしが家を出るまでのあいだ、老人は自分の見えないところに決してわたくしを遣ろうとしないのでした。自分が寝ているあいだのことまで心配して、わたくしに添い寝を命じます。無論、兄弟たちだって歯噛みして悔しがっていただけではございませんけれど……


 そんな日々もようやく終わりを告げ、わたくしは老人と知己の仲だという貴人の家に侍女まかたちとして仕えることとなりました。老人はわたくしが家を去ってすぐに死んだとのことです。三人の息子たちもいがみあいが続いてついに互いに手をかけあうまでになったとか聞いた気がしますけれど……でも、もううに昔のことですものね。忘れてしまいましたわ。



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