6-4 「翼はどうなるんだろう」

 その夜のことである。


 自由行動を終えてバスで宿泊施設に向かった桜花中学校二年生の一行は、部屋の窓から見渡せる壮観に歓声をあげ、地元の産物を使った夕飯を楽しんだあとで、男女別れて大浴場へと赴いた。入浴にあてられた時間はごくわずかであったが、この施設では温泉を引いているのだと知っていた女子たちは手早く髪と体を洗い、一分一秒でも長く湯に浸かれるよう努力を惜しまなかった。舞もそのひとりであった。


 湯は熱く、もうもうと湯気が立ち込める中ではまじまじと裸体を吟味されることもないので広い湯舟の縁に腰かけて足だけを浸しているものも何人かあったが、舞は肩まで浸からないと気が済まないので頬を湯気にあてていた。暑がりな翼は腰までしか浸かれないままに、舞の頬が真っ赤に染まっているのを林檎みたいだと言って笑った。ので、舞は怒ってますます赤くなりながら、熱い飛沫をお見舞いし、翼もその仕返しにと舞の近くで湯の面を蹴った。



 湯上りの舞たちを、ロビーの肘掛椅子に深々と腰かけて菅野先生が待ち受けていた。長谷先生や鳥居先生といった女性教員たちが、髪を乾かしていなかったり、スリッパを片方なくしていたり、まともに部屋着を着ていなかったりする生徒を叱るその奥で、好々爺の菅野先生はにこにこと笑いながら、紙パック入りの林檎ジュースを配布していた(林檎がまた出てきたので翼は笑った)。舞と翼は喜んでそれを受け取って周りのみんなにならい、ロビーのソファのひとつに腰かけた。


「夜になると湖って真っ黒なんだね。なんか穴があいてるみたい」


 と、翼はストローから唇を放して呟いた。舞と翼は窓際の席を陣取っていたため、百合煎の夜景がよく見えた。ロビーの灯りが大窓に映り込むので、舞は冷たい窓に鼻を押しつけるようにして見てみたが、確かに翼の言う通り、湖のあるべきところには見透かせぬほどの濃い闇が溜まっており、あたかも巨大な空洞が横たわっているように見えるのであった。湖沿いに建てられたホテルや家々や道路の灯りが、湖の周りをビーズ飾りのようにきらきらと縁取っていた。その間に、小さな光の粒が流星のごとくすっと流れるのは道路を走る車のライトであろうと思われる。舞はこの夜に水辺を行く人の心を思った。


 ふと、舞はなんの関連もなく、龍明神社の青い鳥居を思い出した。見つめている景色のどこかにあるはずだった。そして、龍と化した衣姫もまた穴のあいたような闇の底に眠っているのだ。


「それにしても残念だったな、水仙女学院の文化祭」


 翼がつぶやいたので舞は窓から顔を離した。翼はまだいくらか濡れている藍色の髪を左肩の上に流して、タオルで毛先を包んでいた。


「明日からだよね。舞のお姉さん、クラス劇で主役やるんでしょ?見たかったなぁ」

「うちのお姉ちゃんはどうでもいいんだけど。それよりジュリエット役の人がすごいんだよ!きれいで、おしとやかで、見るからにお嬢様って感じで。それにすっごく優しいの!ほんとに、あんなひとがなんでお姉ちゃんの友達なのかわかんない。生徒会の副会長もやってるんだよ!」

「へぇ。じゃあ、ルカさんも知ってるんだ」


 舞はいつしかルカを探して水仙女学院を訪ねたおり、手をつないで校舎を案内してくれた優しい香苗の姿を思い出した。そうだ、あの日は香苗の案内によって、舞はようやくルカと会えたのだった。それから勝手に妹を名乗って呼び出した時も、香苗は親切に対応してくれた。ルカに会わせてほしいという舞の希望を叶えてはくれなかったけれど。会長は大切な方を失われたばかりなのです、と香苗はそう言った。今の舞ならばその「大切な方」の正体がわかる。まさにあの時、玲子は冷たい眠りのなかにいたのだから。


 雨滴のごとく、舞の胸に滴り落ちてささやかな波を立てたものがある。「……会長は大切な方を失われたばかりなのです」と、そう告げたときの香苗の背中を舞は唐突に思い出した。香苗は舞に語りつつもひとり物思いに耽っているようだった。今思えば、その背中はどことなくさびしげで苦しげで……


(あ、れ……)


 まこと、いかなる貞女、賢女であろうとも恋の苦しみからは逃れがたきものだ――聞き流していたはずの佐々木の演説の一節がわけもなく耳によみがえる。



「みんなのお土産何にしようね?」


 舞の胸中知らぬ翼はぐっと腕を伸ばして、ゆっくりと左右に揺らした。


「やっぱりお菓子かなあ?奈々さんは甘いもの苦手だから、お煎餅とかの方がいいよね。でもルカさんはお煎餅って感じしないしなぁ。玲子さんも……そういえば、左大臣はどこにいるかわかったの?」

「えっ?あっ、うん!ルカさんの家にいるんだって」


 舞は夕飯前にルカに電話をして(携帯電話の使用は禁じられていたが、舞はいざという時のために番号を控えておいたので宿の公衆電話から電話したのだ)確認しておいたのだ。電話口に出た左大臣は舞に置いていかれたショックと舞を案じるので半泣きだったが、舞は適当に慰めておいた。


「それならよかった!左大臣にもお土産買わないとね」

「じゃあ左大臣と奈々さんにはお煎餅にしよう!」


 舞の提案に二人はそれはいいとくすくす笑った。


「あっ、舞、ジュース飲み終わったの?パック貸して。捨ててくるから」


 翼はそう言って、舞の紙パックを回収するなりぴょんと立ち上がると、ゴミ箱の方へと軽やかに駆けていく。おろした藍色の髪がきれいだなぁと見惚れながら、舞はなぜか胸に不安が萌すのを覚えた。一体なぜ?私、何を考えていたんだっけ?


「まーい!」


 舞がひとりきりになるタイミングを見計らっていたのだろうか。後ろから二本の腕が伸びてきて肩に抱き着いたので、舞はわぁっと叫んで飛び上がった。振り向いてみると、ソファの背もたれの後ろに理沙と優美が立っていた。二人ともなぜだかにやにや笑いを浮かべていた。


「び、びっくりした……どうしたの?」

「ちょうどいいとこなんだってば。見てみろって。ねっ、あれ?」


 理沙がそう言ってさりげなく顎をしゃくって見せた方向に、例の如く美香と恭弥の姿がある。二人はクラスメートたちが腰を下ろしているところから離れたところにある、少人数用のテーブル席について、何やら楽しげに話し込んでいる。サッカーの話でもしているのだろうか。


「もうあれは完全に付き合ってるっしょ」

「お似合いだよね。サッカー部カップルで」


 優美もにこにこ言う。


「明日もできるだけ二人きりにするから。舞も協力してよ、いい?」


 舞は答えられなかった。答えられるはずがなかった。一体舞はどうすればいいというのだろうか。翼も美香もどちらも舞の大切な親友だ。親友の恋が叶うのは喜ばしいことなのに、舞はもう翼の恋も美香の恋もすなおな気持ちで応援することができない。現に今も美香があれほど楽しそうに、幸せそうにしているというのに、祝福できていない自分がいる。舞はそんな自分が悲しく、あさましく思われて仕方がなかった。翼か美香か。どちらかが笑えばどちらかが泣くことになる……ああ、なんでよりによってこの二人が同じ男子を好きになったのだろう!


 なおもつらいのは、美香より翼の方が好きだとかそんなことではなしに、翼の筒井筒の恋を以前から知っている分だけ、舞の気持ちはどうしても翼の方に傾きがちであることだった――舞もまた幼馴染に想いを寄せていたということもいくらか手伝っていたかもしれない。しかし、目に見えるかぎりで状況は翼に不利である。



(もし、東野君が美香と付き合うことになったら……)


 舞の胸は再び波立ちはじめた。


(翼はどうなるんだろう。あんなに昔から好きなのに。でもそんなの関係ないのかな?美香だって東野君を好きな気持ちの強さは変わらないんだから。だって、あんなにおしゃれして、かわいくなって……翼はあんな性格だから素直になれないだろうし。私、どうすればいいの?)


 つい昨晩――それはもうはるか昔にも思われるのだったが――左大臣に対して無責任に言い放った言葉を思い出して、舞は苦々しい気分になった。自分の恋は終わったから翼の恋を応援するだとかなんとか言ったけど、さっそくお手上げ状態じゃないの、私。


 ちょうど紙パックを捨てた翼が戻ってきた。舞を囲む二人を見て不思議そうな表情を浮かべている翼を見た瞬間、舞は立ち上がっていた。理沙と優美は翼の恋を知らないはずだ。だからこの場で余計な事を言い出しかねない。たとえば、翼に協力を願うだとか……そんなことは絶対に避けなければならなかった。


「翼!部屋に戻ろう!」

「えっ、えぇ?どうしたの急に?」


 親友の戸惑う翼の手を掴んで、舞は半ば無理やり引っ張った。


「いいから戻ろう!……ま、枕投げの準備しないと!」


 唖然とする理沙と優美を残し、さらには「ちょっと今『枕投げ』って単語が聞こえたんだけど?!」とわめく鳥居先生の声も無視して、舞は翼を引き連れてみんなより一足早く階段を上りはじめた。




 その夜、枕投げの昂奮が残っていたためではなく、舞はなかなか寝付かれなかった。その両隣では何も知らない翼と美香が安らかな寝息を立てていた。翼と美香ばかりではない。クラスメートたちは最初こそ騒ぎ興じていたが、見回りの先生の影が差すごとに狸寝入りがそのまま夢への扉となり、ひとりまたひとりと眠りに落ちていった。


 少女たちのあたたかく静かな寝息は見えぬ靄となって部屋のなかに立ち込めているようであるのに、舞はその靄に包まれ眠気まで催しながら、それでも闇のなかに目が冴え冴えとしてくるのを感じていた。寝返りを打つ。その度に思っている。本当に、私どうすればいいの……?



「ふーん。やっぱりご馳走様されてたんだ、ボクの宝物。まったく、衣姫さまも大食らいで困ったものだなあ。まあいいや。舞お姉ちゃんと翼お姉ちゃんがきっと助けてくれるもん、ねっ?」


 そのころ、湖の真上では、上弦の月が狐の尾を雪原のごとく照らし出していた。

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