1-3 「左大臣、また会えたね……!」

「ルカさん……」


 感慨は舞の口からこぼれ出す。舞は思わず天井を見上げる。


「……私にもわかる言葉で書いて」


 読めないよ。「鬱悒い」ってなに?一文字もわからないもん。私が漢字知らないだけじゃないよね?中学二年生に読めるわけないよね?っていうか高校生でも読めないよね、きっと……あれ?ルカさん何歳だっけ?


 それから舞は再び手紙に向き直る。ルカの文章は難しいが、舞を思いやり心配するその心だけは痛いほどに伝わってきた。だからこそ舞はいよいよつらくなるということを、ルカは知っているのだろうか――ルカは舞のせいではないと言ってくれているけれども、舞のなかにはまだ京姫として生きた記憶も想いも生々しく残っている。いくら前世での出来事だといわれても、京姫は舞ではないと言われても、あの記憶も想いも切り離すことができない以上、やはり舞は京姫だ。


 京姫に何の罪もないともルカは書いてくれている。舞はルカを信じている。それでもルカの言葉をいまひとつ信用しきれないでいる。もう一度読み直してみよう。


……漆はただ京姫の離京を鐘代わりに使っただけだ。京を守護する姫巫女の失踪だなんていかにも終焉の始まりに相応しいから。



 もう少し前を。


だが、京姫の離京と結界が弱まったことにどれほどの因果関係があったのか、私は疑問に思っている。漆は京姫が京を離れる機会を待っていたというのか?



……漆というのは偶然などというものに頼るような男ではない。



 でも、もし漆が京姫が京を出るように仕組んだのだとしたらどうだろう。京姫はなぜ京を出たのだったっけ?舞は胸のなかで何かが軋む音を聞いた気がした。なぜだか思い出したくない。でも思い出さなくてはならない。そうだ、紫蘭と共に生きたくて京姫は……紫蘭――紫蘭って誰…………?



 ……月光を受けて白くひらめく肩。その肩にこぼれかかるつややかな黒髪。冴えわたる輪郭と皮膚。鋭いのにどこか物憂げな宵闇の色の瞳。うつむいたその影のなかで呼吸をして、ほのかに色づいていたうすい唇。



 手紙ははらりと落ちて素足の上に広がったが、舞は拾い上げることもできないでいた。その時、インターホンの音が鳴った。


「はーい」


 というのが、母の返事であった。母が玄関先へ出て訪問客とやりとりをしているらしい声がしばらくその後に続いたが、舞には誰が来たのだか何を話しているのだかわからなかった。やがて客は帰ったらしく、ドアの閉まる音がした。舞は相変わらずベッドの上に腰かけたまま動けないでいた。母が階段を上がってくる気配がした。


「舞、ちょうどいまね……あら、顔が赤いけど大丈夫?また熱が出たんじゃない?」

「えっ?ううん、大丈夫!」


 舞は慌てて言った。


「それよりなに?」

「たったいま白崎さんが来てくれたの。舞なら起きてるから会いますかって聞いたんだけど、今日はいいって。またお見舞いいただいちゃった。あなた、今度よくよくお礼言ってね」

「う、うん……」

「元気になったらぜひまた遊びにきてくださいって言ってたわよ、よかったわね。まあ、今日はまだ寝てなさい。夕飯の時間にまた起こしてあげるから」


 母が去ってしまうと、舞はつま先立ちになってそっと窓辺にしのびより、ピンク色のカーテンで身を隠しつつも外を覗いてみた。夏の日差しに金色の髪を輝かせて、ルカはまだ京野家の門の前んいたたずんでこちらを見上げていた。白いシャツに黒のズボンというシンプルで品のある装いが、すらりとした長身によく似合っている。ああ、ルカさんだ、と舞は思った。懐かしいだなんて変な感情だ。現実ではたかだか一週間会っていなかっただけだというのに。でも、やっぱり懐かしい。


 舞の影に気がついたのだろうか。サングラスのフレームに指をかけようとするルカを見て、舞は窓辺から飛びのき、ベッドの上に突っ伏した。その後ろでカーテンが揺れていることも知らないで。


(ごめんなさい、ルカさん)


 心臓が早鐘を打っている。まるで脅かされたように。こんな感情を今までルカに対して抱くことなかったのに。


(やっぱり、私、まだ……)


「姫さま」


 舞の心臓はまたもや飛び上がりそうになった。だが、今度は愕きとともに悲しみに似た感情が胸にあふれ出した。愕きが胸に受けた打撃だとすれば、悲しみはそこから流れ出る血液のようなものであった。それが胸いっぱいを浸すのだ。


「……姫さま」


 縋るようなしわがれた声であった。いかめしい老人の口から出るにはふさわしいが、かわいらしいくまのぬいぐるみの口から出るには絶対におかしい。変だ。変。慣れていたせいで変だと思わなかったけれど。舞は一瞬笑い出しそうになったが、笑いのために緩んだかと思えた唇はたちまちわななき出した。だって、おかしいと思った声は京姫を最後まで守ろうとしてくれた声だったから。


 舞は振り返った。今は足を向けている、ベッドの枕元に見慣れたテディベアの姿があった。幼いころからテディと名前をつけてかわいがっていたが、いつからか左大臣と呼び始めていたぬいぐるみだ。やはりこの時も、舞は後者の名でぬいぐるみを呼んだ。


 舞がテディベアに飛びついたのが先か、テディベアが舞の方に駆け寄ってきたのが先かは傍目からはわからなかっただろう。ともかく主従は抱き合った。そして、声を上げて泣いた。舞の目にはたちまち大粒の涙があふれだし、後から後からぼろぼろとこぼれて止まらなくなった。


「左大臣……うっ……ご、ごめんなさい、わたし、わたし……っ!」

「言いなさるな、皆まで言いなさるな……」

「いやっ!!謝らせてよっ!わたし……」

「姫さまに罪はございませぬ。姫さまがあのような最期を遂げなければならなくなったのは、わたくしめが至らなかったためで……」

「ちがうの!わたし……!わたし、左大臣に、辛い思いさせたんだもん……!」


 舞はぬいぐるみの頭の上で鼻をすすった。漆との闘いの明くる日、京姫は左大臣の前で京の人々に連れられて処刑の地へと赴いた。左大臣に止める術はなかった。彼が非力であったからではなく、京姫が左大臣に自分を庇うことを禁じたからだった。長かった冬にようやく春が芽吹きはじめたと思われた、うららかな朝のことであった。


「……確かにあれは悲しい記憶でございましたな、姫さま」


 左大臣の言葉は力なくしぼみかけた。


「しかし、一番お辛かったのは、姫さまではありませぬのか?老いぼれには姫さまと再び出会えたという、それだけでよいのでございますから…………ああ、姫さま!今いらっしゃるのですな!紛れもなく、この九条門松くじょうかどまつめの前に!」

「うん、左大臣、また会えたね……!また会えたんだね……!」


 京野舞と京姫は別人じゃなくていい――少なくともこの瞬間だけはそう思えた。

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